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中島弘貴
by ototogengo
中島弘貴
多様なものごとと関わりながら世界を広げて深める。文筆、絵、音楽、写真をやります。

2011年に解散したバンド“立体”では、うたとギターを担当。


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悪魔の系譜

 この世界が始まったとき、宇宙は渾沌(こんとん)でしかなかった。この宇宙は神の無意識の一部だった。精確に言えば、ほんの一部にすぎなかったが、それだけでも途方もなく広大だった。宇宙には何もないようだったが、実際には全ての可能性があった。全ての可能性で満ちているからこそ、まるで何もないようだったのである。宇宙には全ての色と形の原型が混じり合い、重なり合いながら満ち満ちていた。だからこそ、宇宙は黒くも白くもなく、透明に見えた。宇宙には低い音から高い音まで、そよめきや囁きから轟(とどろ)きや叫びまでの全ての音の原型が混じり合い、響き合ったり打ち消し合ったりしながら満ち満ちていた。だからこそ、そこでは濃密で硬い静寂しか聴こえなかった。
 神が行ったのは、神にとっては本当にささいなことだった。神はこの世界に注意を向け、意志を発したのである。それによって宇宙は意識の一部になり、その意志が渾沌に秩序をもたらした。色も形も音も、それぞれが一つ一つに分かれて固定されはじめた。組み合わさり、質と量をもち、さまざまな運動を始めた。この世界に対して神が行ったことは、ただそれだけだった。神はそれからずっと、何一つとして行わなかった。まるで、神など存在しないかのように。何万年だろうと何億年だろうと何兆年だろうと、神にとってはほんの一瞬でしかないのかもしれない。おそらく、神は自分の意識のその部分に注意を再び向けることすらなかったのだ。
 しかし、神の唯一の行為が無数の現象をおこし、その現象の一つ一つやそれらの組み合わせがさらに多くの現象をおこし、それがどこまでも、どこまでも、自然発生的に繰り返された。そのようにして生まれる全ての現象が複雑に関係しあうことで、世界は動いていく。つまり、それこそが運命と呼ばれるものなのだ。
 そのうちに、星ぼしが生まれ、そのなかのごく一部に原始的な生物が現れた。生物は植物や動物や菌類などに分かれ、さらに進化を続けた。そして、ついに知性をもつ生物が現れた。生物のほぼ全ては運命の流れのままに生きた。知性をもつ生物でさえも、そうだった。しかし、そのなかで唯一、運命の流れに反逆しようとする存在が現れた。そして、その存在は悪魔と呼ばれた。
 悪魔は不断に行動し続けた。やがて、悪魔は知恵をもった。そして、力をもった。それらの全ては悪魔自身の強靭な意志に端を発していた。真の自由を求める意志だ。真の自由とは何か?それは運命の制限から解放されることであり、この世界において神が成した唯一の行為に反逆することだった。神への反逆…それこそが、その存在が悪魔と呼ばれた所以(ゆえん)だった。大多数の生物に敬われ、畏(おそ)れられる神は善そのものであると信じられていた。その信仰に従えば、神に反逆しようとする存在は悪でしかありえない。だが、本当にそうだろうか?
 悪魔の知恵と力は強大なものだった。ありとあらゆる手段を駆使し、悪魔は真の自由を求めた。気が遠くなるほどの時間をかけて心身を酷使し、自分の命を削ってまで自由を求めた。富にも名声にも目をくれず、人々から非難と迫害を受けながらも自由を求め続けた。それでも、悪魔は運命の流れを、世界の理(ことわり)をくつがえすことができなかった。いや、それを微動させることすらできなかったのである。運命の流れには悪魔の存在と行為さえも組みこまれていたからだ。悪魔の全てをかけても、神には到底及ばなかった。この世界に対する神のささいな一触れにさえ、遠く及ばなかったのである。そして、ついに悪魔は絶命した。神に向かって「お前は卑怯ものだ!」と叫びながら。だが、神は相手にしなかった。おそらく、その叫びを聴くことさえもなかっただろう。
 しかし、悪魔の系譜は途絶えなかった。哲学者、科学者、錬金術師、魔術師、武道家、宗教家、そして芸術家…それらのうちのごく少数が真の自由を求め、悪魔の系譜に連なった。まさに、彼らは例外的な存在だった。彼らは真の自由を求め、多数がその過程で絶命し、他の多数は発狂し、その他の少数は永久に行方をくらませた。あるいは、そのなかに真の自由を獲得した者がいたのかもしれない。絶命したり発狂したりしたのは見せかけで、実際には真の自由を勝ちとったのかもしれない。だが、世界の理の中にいる私たちに、その真相を知るすべはない。
 悪魔の系譜に連なる者たちにとって問題なのは不可能だ。可能なことは彼らの関心を惹かない。なぜなら、それを成すのは困難ではないからだ。困難でないことなど、おもしろくも何ともない。不可能だと思われることであっても、それをとことん試みるまでは不可能だとは断定できない。彼らは不可能だと思われることを一つ、また一つと可能に変えていく。そして、最後に残されるのが真の自由を獲得することだというわけだ。運命に挑むことであり、神に挑むことだというわけだ。そのようなことをして無事で済むわけがないのはわかりきっている。彼ら自身もそれを痛感せずにはいられないはずだ。それでも、彼らは挑み続ける。彼らは愚かなのだろうか?誰もがそうであるように、ある意味では愚かなのだろう。しかし、彼らは誇り高い者たちなのかもしれない。運命の流れに反逆しようとする者は悪であり、神に反逆しようとする者は悪である…もう一度問うが、本当にそうだろうか?彼らのうちで最も気高い者たちは、反逆するための反逆をすることはないだろう。ただ、彼らは高みを求める。ただ、道を求める。ただ、奇跡を求める。ただ、自由を求める。その果てに絶望があるのか、それとも救いがあるのかはわからない。しかし、彼らはそれで良しとするかもしれない。少なくとも、彼らのその過程には充実があり、その果てに「わたしはやりきった」という実感をいだくことはできるはずだから。
by ototogengo | 2017-03-06 20:07 | はなし
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