中島弘貴
by ototogengo
中島弘貴
多様なものごとと関わりながら世界を広げて深める。文筆、音楽、絵、写真をやります。

2011年に解散したバンド“立体”では、うたとギターを担当。空島出版主宰。


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変身

きのこの傘に丸っこい小さなイボイボがたくさんできていて、歪(いびつ)な水玉模様のようになっている。そのイボイボの一つ一つが少しずつ膨らみ、光沢をおびた球形の果実に変わっていく。それらはさらに膨らみながら、シャボン玉のように次から次へと、きのこの傘から飛びたつ。それらの球体はふわふわと漂いつつ、上へ上へと昇る。そして、そのようにしながら光を放ちはじめる。水色、桜色、翡翠(ひすい)色、檸檬(れもん)色、紅(くれない)、藤色、群青(ぐんじょう)、生成(きなり)色…それらの球体の一つ一つはそれぞれに異なる淡い色をおび、息づくように明滅しながら暗闇のなかを昇っていく。

やがて、それらの球体の下部がほぐれはじめ、ふんわりと開いていく。そして、その球体の各々(おのおの)が、発光する水母(くらげ)に変わっていく。半球形の体をもつ水母もあれば、紡錘形や円盤形や餃子(ぎょうざ)のような形の体をもつものもある。水母のそれぞれがもつ触手の数や長さや太さもさまざまで、その色も違えば、その透明度も違う。水母たちは漂ったり、膨らんでは縮んでを繰り返したり、触手をひよひよと動かしたりしながら昇りつづけ、光り方を変えていく。無数の細かい輝きをおびて表面がちらちらと光るもの、燃えるように内側からぼおっと光るもの、体を縦につらぬく数本の透明な繊毛の列が多彩かつ細やかに瞬くもの、爆発するような閃光を全体から放射するものなど、その光り方はそれぞれに異なる。

やがて、河のような流れになった光り輝く水母の群れが、あちこちからやって来て合流する。すると、水母の群れの全体はより大きな、より密度の高い流れに成長しながら、さらに上へ上へと昇っていく。水母たちの放つ多様な光が上下左右に、手前に奥に重なりあい、混じりあい、動きつづける。それは想像を絶するほど壮麗な音楽のようで、わたしたちの貧しい感覚ではとても捉えきれない。感覚はとっくに溢れかえっているのに、その光はさらに強く、広く、深く、精妙になる!その光を眺めていると、夢のなかにいるような気もするが、それはすばらしく冴えわたった夢だ。いや、その光をただ「眺めている」と言うよりは、「体験している」と言った方がいいだろう。わたしたちは取り憑()かれたように、その光の体験に魅了されるしかない。

やがて、水母たちの透明な体が半透明の暗闇のなかに溶けこんでいく。だが、それらが放つさまざまな光はますます鮮やかさと複雑さを増しながら、全天に広がっていく。その夥(おびただ)しい光は、星雲や恒星や彗星や惑星や衛星などのそれなのだ。眩暈のするほど複雑な輝きが、途方もなく複雑に運動している。そのような輝きを繰り広げながら、宇宙は絶えまなく速度を増しつつ膨らみつづける。


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# by ototogengo | 2017-10-19 22:08 | はなし

悪魔の系譜

 この世界が始まったとき、宇宙は渾沌(こんとん)でしかなかった。この宇宙は神の無意識の一部だった。精確に言えば、ほんの一部にすぎなかったが、それだけでも途方もなく広大だった。宇宙には何もないようだったが、実際には全ての可能性があった。全ての可能性で満ちているからこそ、まるで何もないようだったのである。宇宙には全ての色と形の原型が混じり合い、重なり合いながら満ち満ちていた。だからこそ、宇宙は黒くも白くもなく、透明に見えた。宇宙には低い音から高い音まで、そよめきや囁きから轟(とどろ)きや叫びまでの全ての音の原型が混じり合い、響き合ったり打ち消し合ったりしながら満ち満ちていた。だからこそ、そこでは濃密で硬い静寂しか聴こえなかった。
 神が行ったのは、神にとっては本当にささいなことだった。神はこの世界に注意を向け、意志を発したのである。それによって宇宙は意識の一部になり、その意志が渾沌に秩序をもたらした。色も形も音も、それぞれが一つ一つに分かれて固定されはじめた。組み合わさり、質と量をもち、さまざまな運動を始めた。この世界に対して神が行ったことは、ただそれだけだった。神はそれからずっと、何一つとして行わなかった。まるで、神など存在しないかのように。何万年だろうと何億年だろうと何兆年だろうと、神にとってはほんの一瞬でしかないのかもしれない。おそらく、神は自分の意識のその部分に注意を再び向けることすらなかったのだ。
 しかし、神の唯一の行為が無数の現象をおこし、その現象の一つ一つやそれらの組み合わせがさらに多くの現象をおこし、それがどこまでも、どこまでも、自然発生的に繰り返された。そのようにして生まれる全ての現象が複雑に関係しあうことで、世界は動いていく。つまり、それこそが運命と呼ばれるものなのだ。
 そのうちに、星ぼしが生まれ、そのなかのごく一部に原始的な生物が現れた。生物は植物や動物や菌類などに分かれ、さらに進化を続けた。そして、ついに知性をもつ生物が現れた。生物のほぼ全ては運命の流れのままに生きた。知性をもつ生物でさえも、そうだった。しかし、そのなかで唯一、運命の流れに反逆しようとする存在が現れた。そして、その存在は悪魔と呼ばれた。
 悪魔は不断に行動し続けた。やがて、悪魔は知恵をもった。そして、力をもった。それらの全ては悪魔自身の強靭な意志に端を発していた。真の自由を求める意志だ。真の自由とは何か?それは運命の制限から解放されることであり、この世界において神が成した唯一の行為に反逆することだった。神への反逆…それこそが、その存在が悪魔と呼ばれた所以(ゆえん)だった。大多数の生物に敬われ、畏(おそ)れられる神は善そのものであると信じられていた。その信仰に従えば、神に反逆しようとする存在は悪でしかありえない。だが、本当にそうだろうか?
 悪魔の知恵と力は強大なものだった。ありとあらゆる手段を駆使し、悪魔は真の自由を求めた。気が遠くなるほどの時間をかけて心身を酷使し、自分の命を削ってまで自由を求めた。富にも名声にも目をくれず、人々から非難と迫害を受けながらも自由を求め続けた。それでも、悪魔は運命の流れを、世界の理(ことわり)をくつがえすことができなかった。いや、それを微動させることすらできなかったのである。運命の流れには悪魔の存在と行為さえも組みこまれていたからだ。悪魔の全てをかけても、神には到底及ばなかった。この世界に対する神のささいな一触れにさえ、遠く及ばなかったのである。そして、ついに悪魔は絶命した。神に向かって「お前は卑怯ものだ!」と叫びながら。だが、神は相手にしなかった。おそらく、その叫びを聴くことさえもなかっただろう。
 しかし、悪魔の系譜は途絶えなかった。哲学者、科学者、錬金術師、魔術師、武道家、宗教家、そして芸術家…それらのうちのごく少数が真の自由を求め、悪魔の系譜に連なった。まさに、彼らは例外的な存在だった。彼らは真の自由を求め、多数がその過程で絶命し、他の多数は発狂し、その他の少数は永久に行方をくらませた。あるいは、そのなかに真の自由を獲得した者がいたのかもしれない。絶命したり発狂したりしたのは見せかけで、実際には真の自由を勝ちとったのかもしれない。だが、世界の理の中にいる私たちに、その真相を知るすべはない。
 悪魔の系譜に連なる者たちにとって問題なのは不可能だ。可能なことは彼らの関心を惹かない。なぜなら、それを成すのは困難ではないからだ。困難でないことなど、おもしろくも何ともない。不可能だと思われることであっても、それをとことん試みるまでは不可能だとは断定できない。彼らは不可能だと思われることを一つ、また一つと可能に変えていく。そして、最後に残されるのが真の自由を獲得することだというわけだ。運命に挑むことであり、神に挑むことだというわけだ。そのようなことをして無事で済むわけがないのはわかりきっている。彼ら自身もそれを痛感せずにはいられないはずだ。それでも、彼らは挑み続ける。彼らは愚かなのだろうか?誰もがそうであるように、ある意味では愚かなのだろう。しかし、彼らは誇り高い者たちなのかもしれない。運命の流れに反逆しようとする者は悪であり、神に反逆しようとする者は悪である…もう一度問うが、本当にそうだろうか?彼らのうちで最も気高い者たちは、反逆するための反逆をすることはないだろう。ただ、彼らは高みを求める。ただ、道を求める。ただ、奇跡を求める。ただ、自由を求める。その果てに絶望があるのか、それとも救いがあるのかはわからない。しかし、彼らはそれで良しとするかもしれない。少なくとも、彼らのその過程には充実があり、その果てに「わたしはやりきった」という実感をいだくことはできるはずだから。
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# by ototogengo | 2017-03-06 20:07 | はなし

2017年2月24日 Slapp Happy来日ライブレポート

Slapp Happy(スラップハッピー)…1972年にドイツで結成された三人組のバンド。三枚のアルバムを出したあと、1975年に活動を停止。1998年に23年ぶりとなるアルバムを発表し、2000年には来日公演も行った。彼らは2016年下旬からライブ活動を再開し、2017年2月にオリジナルメンバーによる二度目の来日公演を果たした。ポップかつ実験的な音楽性から、彼らはアヴァンポップバンドと呼ばれることもある。

2017年2月24日(金)Slapp Happy来日ライブ
(Mt. RAINIER HALL SHIBUYAにて)
〈セットリスト〉
(第1部)
01. A Little Something
02. Me and Parvati
03. Michelangelo
04. Mr.Rainbow
05. The Secret
06. Small Hands of Stone
07. Silent the Voice
08. Who’s Gonna Help Me Now?
09. Blue Flower
10. Casablanca Moon
11. Just a Conversation

(第2部)
12. Charlie’n Charlie
13. Slow Moon’s Rose
14. Child Then(→Some Questions About Hats)
15. King of Straw
16. Scarred for Life
17. The Unborn Byron
18. I’m All Alone
19. Let’s Travel Light
20. Heading for Kyoto
21. Dawn
22. The Drum

(アンコール)
23. Blue Flower
24. Who’s Gonna Help Me Now?

〈メンバー〉
Dagmar Krause - vocal
Peter Blegvad - guitar, vocal
Anthony Moore - keyboard, guitar, chorus


〈ライブレポート〉(※以下、曲名を“”の中に記します)
 開演時間になり、メンバー三人が登場。とても背の高いピーター・ブレグヴァドを先頭に、小柄なダグマー・クラウゼ、中背のアンソニー・ムーアが続く。客席から見て、ピーターが左手、ダグマーが中央、アンソニーが右手に位置どり、ついに演奏が始まった。十年以上前から観ることを切望し続けてきたスラップハッピーのライブだ。
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 声域が低くなったものの、ダグマーの硬質な歌声は顕在。また、その声域の変化があったからこそ、絞りだすように歌いあげる場面やファルセットで繊細な高音を出す場面が際立った。ギタリストのピーターはほほえみながら演奏する場面が多く、たのしそう。押さえどころは押さえつつ、遊びを垣間見せるギタープレイが小気味良く、その歌声は温かくて力強い。アンソニーはキーボードがメインだが、曲によってギターに持ち替える。キーボードで出すことの多かった、水のように透明感のある優しい音色が心地良かった。
 “Just a Conversation”の演奏中には、ダグマーが電話機に模した小道具を持ちながら話をするという寸劇を演じた。“Let’s Travel Light” の間奏では、ピーターが口笛を、アンソニーがカズーを吹き、“I’m All Alone”の間奏では、メンバー三人が同時に(!)半即興的なハーモニカを吹いた。また、“Child Then”が“Some Questions About Hats”へと滑らかに移行し、後者の曲をワンコーラスだけ歌って終わるという心憎い演出もあった。以上のような遊び心にあふれる演奏が彼らの魅力の一つだ。それが特に顕著に感じられたのは“Blue Flower”で披露した、ピーターとアンソニーによるヴェルヴェットアンダーグラウンド(※主に1960年代後半~70年代前半に活動したアメリカのバンド。初期に芸術家のアンディ・ウォーホルと関係があった)風のツインギタープレイ。MCでダグマーがヴェルヴェットアンダーグラウンドから影響を受けたと言っていたが、二人とも実にたのしそうにギターを弾いていた。
 一方、彼らは曲や場面によってシリアスな演奏をした。“Mr.Rainbow”の激しさ、“Silent the Voice”の荘厳さ、“Slow Moon’s Rose”の穏やかさ、“Scarred for Life”の切なさ、“The Unborn Byron”の神秘性など…シリアスかつシンプルな演奏がそれらの特徴を引き立てていた。ダグマーが鬼気迫る絶唱をみせた“Mr.Rainbow”と、演奏中に涙する観客もいた“Scarred for Life”は、この日のライブのなかでも特に心を揺さぶられた曲だ。
 ピーターが「タンゴだ」と言ってから名曲“Casablanca Moon”の演奏を始めると、客席から大きな拍手がわきおこったのも印象的だった。

 MCやライブ中の立ち振る舞いなどから、三人のチャーミングな人柄もうかがえた。ピーターがユーモアをまじえ、最も多く話した。第二部に入ったときに「ぼくたちは眠いから、目を覚ますためにこの曲を演奏する」という意味合いの言葉をおどけて話したことが記憶に残っている。アンソニーは物静かだが、突然おもしろい発言をする。“Mr.Rainbow”を演奏する前に、「ラウドにしよう。ライブなんだから」というようなことを言ったり、“Child Then”を演奏する前に「ぼくは子どもだ」という意味合いのことを言ったり。このように形容すると失礼にあたるかもしれないが、ダグマーは姿も言動も可愛らしかった。日本語に興味があるらしく、「こんばんは」という言葉を観客に言わせ、それに続いて彼女自身が発音するという一幕もあった。何よりも印象深かったのは、二度目のアンコールのあとでダグマーが観客に向かって何度も「ありがとう」と言い、マイクのスイッチが切れてからも、たぶん「ありがとう」と言い続けていたことだ。こちらこそ、まさかの再来日ライブを観られ、さらに二度ものアンコールに応えてもらえて、感謝の念しかない。以上の経緯もふくめ、忘れがたい一夜になった。

 ずっと前から、スラップハッピーのことを「魔法のようなバンド」だと思っていた。今回のライブを観る前には、その魔法がとけてしまうのではないかという不安もあった。だが、実際にライブを観ると、その不安はすっかりなくなった。それどころか、彼らは「魔法のようなバンド」だという実感がさらに強まった。スラップハッピーに出会えて良かった。彼らはとても不思議なバンドで、これほど愛おしく思えるバンドは他にない。
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# by ototogengo | 2017-02-27 21:17

光の綿毛

 わたしは黄金色をおびた白い光に温かく包まれて、うつら、うっつら、うつら、うっつらと揺れていた。どのくらいの間そうしていたのか分からないが、頭が突然がくっとなって、わたしはぼんやりと目を開いた。座りこんで日向ぼっこをしているうちに眠ってしまったらしい。視界が開けた瞬間、一気に目が覚めた。そこに見える光景があまりにも鮮烈だったからだ。
 先ほど「光景」と言ったとおり、それは光の景色だった。時間が静止に近づいていたせいか、斜め向きに降りそそぐ光が具現化されて目に見えた。それは空中をゆっくりと進む、おびたしい綿毛の形を成していた。それらはゆらゆらしながら直線に近い軌道をとって放射され、金や銀をおびた白色に輝きつつ、時に淡い七色をひらめかせる。しゃぼん玉や貝殻の表面に見られるような、あるいは一定の角度から水晶を見ると現れるような、精妙な七色だ。その光景は美しい音楽のように空間を満たしていた。さざ波をたてながら細かく砕け散る、透きとおった川のせせらぎにも似て、ちらちらと、きらきらと煌めいている。絶え間なく動き続けており、同じ瞬間は決して存在しない。
 それらの光の綿毛は、たんぽぽの綿毛を連想させた。それと同じように、一つ一つが小さな種をぶら下げている。ただし、その種は茶色ではなく、まばゆい白色をしていた。
(この種は何を生みだすんだろう?)
 と、わたしは思った。興味を覚えて、それらの光の綿毛を両手でつかまえようとしたが、手ごたえはなかった。しかし、わたしの手をすり抜けたわけでもなかった。おそらく、この手と一体化したのだ。わたしは手の平を開いた。そして、それを見た。手の平は綿毛の数々を吸いこみながら明るみをおび、その縁(ふち)や指の間にある影が濃くなっていた。その瞬間、先ほどの問いの答えが、稲妻が走るようにして思いうかんだ。
(たぶん、この種はそれが触れる全てのものの像を生みだすんだろう。色を生みだして影を生みだすんだ)
 上を向けて開いたままの手の平の表面に、依然として光の綿毛の群れが吸いこまれている。すると、そこがぽうっと温かくなってきた。
(それに、この種は熱を生みだす。光というものの性質を考えると、時間や命も生みだすのかもしれないな。いや、場合によっては死さえも)
 わたしはそれらの種の源である、太陽の方を見た。燃え尽きそうなほど強烈に輝く綿毛の大群が、さらにまばゆい輝きを放つ太陽をかこむ大きな円を成して存在していた。その円の周辺を、淡い七色にひらめく無数の細い線分が絶え間なく動いている。重なり合いながら模様を成して。それは綿毛の繊維をしめす長短さまざまな線分で、近くにあるものが長く、遠くにあるものが短く見える。すばらしい光景だった。だが、わたしは眩しくて目を閉じずにはいられなかった。しかし、瞼の裏には先ほどまでの光景が焼きついていた。いや、それどころか、その模様が目を閉じる前と途切れなく繋がって動き続けていたのだ。眩しくて、今度は目を開かずにはいられなかった。つまり、目を開いていても眩しくてたまらないし、目を閉じていても同じなのだ。だから、わたしは太陽の方向から顔を逸らしたうえで目を開けた。すると、先ほどまでの光景は消え失せ、二度と戻ってこなかった。
 月日が経った今となっては、心のなかにそのときの光景の印象がおぼろげに残っているにすぎない。だが、光のさすところを見つめているときだけは、そこに無数の光の綿毛が見えるような気がする。小さな種をぶらさげた綿毛の数々がうっすらと透きとおって。
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# by ototogengo | 2016-11-07 20:29 | はなし

稲妻と地面のひび

青年「ここの土は乾いてるね」
少年「うん。乾いてひびが入ってる」
青年「このひびは何の形に見える?」
少年「稲妻みたいだ」
青年「これが本当の稲妻だとしたら、どう思う?」
少年「そんなわけないよ」
青年「どうして?」
少年「だって、稲妻だったら大きな音をたてるし、もっと速く動くはずだもん。それに、たくさんのものを壊すはずだよ」
青年「そうだね。だけど、おとなしい稲妻だってあるかもしれないよ。空のなかを一瞬で走る稲妻の数億分の一の速さで地面を走る稲妻がね」
少年「でも、やっぱり稲妻じゃないよ。稲妻ならまぶしいはずだけど、このひびは黒いもん」
青年「地面にあって、おとなしくて遅くて黒い。空の稲妻とは全然違う、そんな稲妻があってもいいと思うけどな」
少年「だけど、やっぱり地面のひびは地面のひびだよ。稲妻が稲妻なのと同じで」
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# by ototogengo | 2016-08-16 02:02 | はなし

webマガジン「アパートメント(元・いとでんわ)」参加記事

2011年10~11月
創作、散策、植物、永遠…さまざまな題材を扱ったエッセイ連作

2013年4~5月
絵/矢野ミチルさん⇔話/中島弘貴による共同連作

http://apartment-home.net/author/hiroki/
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# by ototogengo | 2015-12-31 23:59

野生の思考×知性の思考

12/20(日)「野生の思考×知性の思考」
会場:カフェぽれやぁれ (高円寺)
時間:17時半オープン/18時スタート
料金:1000円+1オーダー
出演:中島弘貴、村上大樹(from因島)

※水色の字をクリックすると、お店のホームページに飛べます

広島県の因島から、村上大樹さんを招きます。多様な活動をする村上さんはユーモアと真摯さを作品にこめる、ユニークかつ真っ当な芸術家です。すばらしい感覚や思考や行動に誘う、村上さんの最新作であるweb絵本はこちら→原子の言葉

第一部は、二人の作家がお互いにインタヴューをし合い、話を広げます。二人とも、自分たちだけでなく会場のみなさんに問題を投げかけるような質疑応答をするつもりです。お客さんからの質問や意見も大歓迎です。
第二部は、音楽と身体表現による即興パフォーマンス。演者さえも、何が起こるのかわかりません。しかし、根源的・原始的なものになる予感があります。(※パフォーマンスについて追記。即興による共演の他に、自分の楽曲を二人で演奏することも決定しました)
以上の二部を通じて、イベント名の意味がめくるめく変化をしながら立ちあがるでしょう。

ちなみに、会場は美味しい飲みものとご飯のある温かい雰囲気のお店です。

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# by ototogengo | 2015-12-20 23:59 | 出演、出展

てんとせん2

2015年の11/7(土)18時~東京都高円寺のカフェ「ぽれやぁれ 」で<てんとせん>というイベントの二回目を開催します。
主催は画家のサマ さんと自分の二人。今回の内容はトークとライブペイント。トークのテーマは《神話》。時間と空間を超え、どんな「点と線」が結ばれるでしょうか。参加する皆さんのご発言も歓迎します。ライブペイントでは、幽玄な作風をもつ画家の 柴田高志さんをゲストに迎えます。中島弘貴(ギター、声)の音楽演奏と共にサマさん、柴田高志さんの二人が同時に別の作品を描きます。そちらに関しても、おたのしみに。

ちなみに、会場は美味しい飲みものとご飯のある温かい雰囲気のお店です。

※水色の字をクリックすると、それぞれのホームページに飛べます。また、フライヤーの画像をクリックすると拡大されます。
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# by ototogengo | 2015-10-01 01:20 | 出演、出展

『魔王と呼ばれた者の手記』

私は人間から「魔王」などと呼ばれている。魔物と呼ばれる怪物たちを率いて、人間を大量に殺したからだという。しかし、人間の方だって、たくさんの生き物を殺しているではないか。食うために、着るために、暮らすために。それどころか、戯れのために殺すことだってあるし、文化や文明というものために、半ば無意識に無数の生き物を殺し続けているではないか。それどころか、金や土地や宗教のために戦争をし、人間同士で殺し合うことさえ日常茶飯事だ。私の仲間のほとんどは、確かに野蛮だ。礼儀作法など心得ず、服を着ずに丸裸でおり、家を持たずに野宿している。読み書きをできないどころか、ろくに話せない者も多い。しかし、我々はただ命を繋ぐために殺し、食べる。共食いすることもあるが、それもまた命を繋ぐため。だから、贔屓(ひいき)目など全くなしに、質においても量においても、人間の方がずっとむごい殺しをしている、と言えるだろう。もしも、動植物が言葉を話せたら、「人間こそが魔物だ」と言うのではないだろうか。
確かに、人間の見かけは美しい。個人差こそあるが、子供や若者の肌はなめらかだし、角や牙や棘のような鋭い部分が表面にないので、顔も体も優しげに見える。私は、特に人間の眼を美しいと思う。静かな水面のように周りの様子を映し出す半透明の瞳は黒、茶、青、緑、灰と、人によって様々な色を含み、その色合いはニュアンスに富んだ美しい鉱石のようだ。死体からくり抜いた冷たい目玉を、指の間で弄(もてあそ)びながら眺めていると、一向に飽きない。その後で食べるのが躊躇(ためら)われるほどだ。一方で、我々の外見は、人間からすれば醜いと言えるかも知れない。しかし、例えば、ぬめぬめした鱗(うろこ)にびっしりと覆われた私の仲間の体をよく見て欲しい。光の当たる角度によって、油分を含んだその皮膚は淡い虹色を帯びて煌(きら)めく。枝分れした棘のような硬い毛が頭や背中や腕や脚に生えた、他の仲間はどうか。注意すると、その毛の一本一本は、ある種の繊細な珊瑚(さんご)を連想させるだろう。他の仲間に、鰐(わに)に似た巨大な顎(あご)が腹の真ん中から突き出た者もいる。その恐ろしげな口からは酷い悪臭がするが、切れ味のいい刃物のような牙や、その奥にある消化器官の優れた機能性は感嘆するべきものだ。このように、私の仲間の多くは、全身を見れば、不格好だと言えなくもない。しかし、よく観察すれば、よく考えれば、何かしらの美点を見出せるに違いない。
 先ほどは、我々に対する不当な扱いを訴えるために人間のことを批判したが、彼らにも倣(なら)うべきところがあり、優れた者が多くいることも私は認めている。繰り返すようだが、我々は、何も憎いから彼らを食べるわけではない。ただ食べたくなるから食べるだけだ。人間が牛や豚や鳥や羊を食べるように。実を言うと、私は人間と心ゆくまで話をしたいとさえ思っている。ここ十数年、彼らの記した本を何千冊か読み、なみなみならぬ感銘と影響を受けてきたからだ。古代から現代まで、注目に値する思想を育(はぐく)み、敬うべき態度をもって生きた人間は少なくないらしい。これまでの読書経験から察するに、国や人種や職業を問わず、そうなのだ。それに、彼らが言い伝えたり書き残したりした物語にも、興味深いものが多々ある。しかし、どうすれば様々な人間と対話したいという願いを叶えられるだろう?彼らは私の前に立つと震えあがるか、敵意を抱くかする。お互いに欲望や感情を抑え、冷静に話し合う…それだけでいいのに。英知の前では、誰もが平等なはずではないか?敵か味方かはもちろん、どんな生物の部類に属しているかさえも関係がないはずではないか?
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# by ototogengo | 2015-02-03 03:47 | はなし