中島弘貴
by ototogengo
中島弘貴
多様なものごとと関わりながら世界を広げて深める。文筆、音楽、絵、写真をやります。

2011年に解散したバンド“立体”では、うたとギターを担当。空島出版主宰。


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『石のように、樹のように』

 地面が固い赤土で覆われた荒野地帯。ごつごつした岩山がそこいらに切り立ち、枝や幹をうねらせる樹、細長かったり丸っこかったりするサボテン、背の低い花のような、赤や緑や茶色をした様々なかたちの多肉植物がまばらに生えている。近くに海も河も湖もなく、先に挙げたものの他には草花もろくに生えない、そんな地方にある孤立した小さな村落に旅人が訪れた。
 照りつける強い日差しが肌を焼き、風が吹くたびに土埃の流れがもうもうと広がっては視界を遮り、息を苦しくする。それらを少しでも軽減するために、村人はみな体にも頭にも布を巻きつけている。日光を浴びて、それらのはっきりとした畝(うね)を引く襞は美しい陰影を帯びる。
 外部の者の珍しい訪問を受けた村人たちは旅人を歓待した。石のように物静かで、表情も体もあまり動かさない者が多いが、本当のところはとても気がいいのだ。彼らは夜な夜な大きな火を囲んだ慎ましやかな宴を開いては、ご馳走である爬虫類や獣の肉、それから主食である芋を干したり火に通したりしたものを振るまい、わずかではあるがその芋から作った蒸留酒を旅人の杯に注ぐのだった。その初めての一夜に旅人をぎょっとさせたのは、それまで衣服で隠されているか近くで見ることのなかった彼らの手が樹のように節くれだっており、その指から枯れた小さな葉のようなものが数枚生えている様子が間近で確認できたときだったが、何度も見るうちに慣れてしまった。これもそのときに取り分け印象に残ったことだが、村人たちの足の指や帽子を脱いだ髪の毛にも同じように葉状のものが生えているのだった。
 宴においては独特な音楽の演奏があった。ごくゆったりとしたリズムの、あるいはリズムといえるリズムすらない空隙(くうげき)の多い調べが主を成していたのである。速くてはっきりしたリズムを刻むには体力を要するし、それは奏者、聴者双方の気持ちを高揚させて体の動きを活発にする。となると、この村において大変貴重な水分を浪費することになる…先述したような演奏がなされるようになった理由はそんなところだろう。事実、彼らの演奏には鎮静作用があった。具体的には、太さの異なる5本の糸を張った木製の弦楽器を一人か二人でポロ、、ポロン、チャッ、ジャン、、ピィーンという具合に弾くのだったが、それらは晴れた日のそよ風のように、あるいは森の葉のざわめきのように深く心身に沁みわたり、安らぎをもたらすのだった。それに合わせて抑制のきいた声で合唱することもあったが、つぶやきに似た短い音と祈りに似た長い音を組み合わせて空気を震わせ、揺らし、神聖な感慨を呼び起こすのだった。
 すぐにそこを発つつもりだった旅人は、村での生活にすっかり居心地が良くなって、つい滞在を長引かせた。そんな穏やかで愉しい夜を幾つも過ごし、朝や昼には子供たちの独楽(こま)遊びや綾取りの仲間に入れてもらい、彼らと一緒にうたをうたい、村の女たちと村の中心部にある井戸へ行っては水汲みや洗濯を手伝うのだった。
 一方で、そんな短い滞在のうちにも村の抱える問題は容易に知れた。実際に旅人がその現場に遭遇したわけではないが、村人たちは若い者も老いた者もみな、流産の率が極めて高いことや幼い子供が熱病にかかって亡くなりやすいことを口にしていた。そして、それには水不足が大いに関係しているのだった。
「よそ者のわたしが言うのもなんですが、井戸をもっと増やせばいいんじゃないですか?」
 旅人は村の男に進言したが、
「井戸をこれ以上増やすと地盤沈下が起こり、村全体の存続すらも危ぶまれるんだ。現状でさえその危険性 を鑑みて、汲み上げる水の量をぎりぎりまで抑えているんだよ」
という答えが返ってくるのだった。
「では、遠方の河や湖から水路を引いて来れないんですか?」
 旅人はさらに問うたが、
「いや、それをするためには労力が圧倒的に足りない。成功の見込みの少ないものに、みんなの生活を放り出してまで賭けることなんてできないだろう?」
 と、返答されるのだった。

 旅人は自分の滞在が村人たちに多少の助けやたのしみをもたらしていることを自覚してはいたが、一方で彼らの負担にもなっていることも痛感していた。数日にわたって彼は考え、自身が漂泊の生活に戻った方が彼らのために良いという結論に至った。そこで、旅人は村の長に打ち明けた。
「実は、明日の朝にここを発つつもりでいます」
「随分と突然だね。どうかしたのか?」
「わたしはこれ以上、大好きなあなた方に迷惑をかけたくないんです」
 彼が言うと、
「迷惑なんてとんでもない。わしらもお前が好きだからこうしているだけなんだ。そうしたいなら、いつまでもここにくれたっていいんだよ。お前は女たちをよく手伝ってくれるし、始めたばかりの小屋を建てる仕事にしても狩りにしてもとても筋がいい」
 という応えが返ってくるのだった。
「どうもありがとうございます。でも、それを聞いてわたしが流れ者であることを改めて思い知りました。わたしはまだ他のところへ行って多くを見たいし、そうせずにはいられないんです」
 旅人は言った。
「そんな眼をして言われると、わしもこれ以上引き止めることはできん。だが、お前がもしも旅に疲れたら、いつでも戻っておいで。ここでの暮らしは決して楽ではないが、とても穏やかではあるし自然のありがたみを深く実感できるからね。わしはここで生きる厳しさを知っているが、それ以上にここで生きることをすばらしいと知り、愛しているんだ」
 村の長はそう言いながら、やさしい光を湛えた眼で旅人を見つめるのだった。
「ええ、ここのすばらしさはわたしもよく知っています。この村のことも、みなさんのことも愛しています。みなさんがとても良くして下さったので、わたしにとってもここは特別な場所になりました。重ね重ねどうもありがとうございます。きっといつかまたここを訪れます」
「ああ、みんなでそのときが来るのをたのしみにしているよ」
 その夜、旅人が発つ前の最後の宴が開かれた。涙を流す者も多くあったが、村人たちはみな、彼が旅に戻ることを快く受け入れてくれた。宴は概して朗らかな様子で進み、旅人はそのたのしみをわだかまりなく、それでいてしみじみと噛み締めることができた。夕刻から吹き始めた強い風に煽られ、いつもよりもずっと大きくて明るい炎が談笑や音楽演奏をする彼らの様子を照らし出していた。
 旅人はこれまでにも多くの出会いと別れを経験してきたので滅多に泣くことはなかったが、ある唄を合唱するときに涙を流した。それは詞も旋律もすっかり覚えていた、その村に伝わる彼の最も好きな唄だった。

 鳥は鳥であることをする
 それが最も良いと分かっているから
 風は風であることをする
 それが最も正しいと分かっているから
 うたおう

 太陽は太陽であることをするし、
 月は月であることをする
 わたしはわたしであることを、
 あなたはあなたであることをしよう
 それが最も幸せだと分かっているから
 うたおう

 旅人の目から溢れて頬を伝う涙は炎に照らされて輝いていた。時に声を詰まらせながら、それでも彼は唄いきった。村人の多くも同じで、涙を流しながらも祈るような合唱を続け、寄せては返す温かな音の波が辺りを包み込むのだった。そして、唄の後半の「わたしは」から「うたおう」までの部分が誰の合図もなく三度繰り返された。その合唱は空気のなかと彼らの心のなかに、いつまでもいつまでも尾を引いた。
 旅人は酒に強かった。村人たちにとって酒は貴重なので必要以上に呑むことはなかったし、はめを外すことの稀有な彼らは過度に酔っ払うこともまた少なかった。しかし、その夜ばかりは旅人も村人たちも遅くまでしゃべり、呑み、握手をし、肩を組み、大いに笑って大いに泣いた。そのうちに、彼らは座ることもままならなくなり、地面に寝転がった。そのまま眠ってしまうものもいたが、旅人と村人の数人は仰向けになって夜空を眺めた。満天を密に、または疎に埋め尽くす星ぼしは、酩酊によってより鮮やかな光と彩りとを伴って彼らを魅了し、その心を震わせた。それらはぐるぐると回っては静止し、上下左右や奥に手前に揺らめき、輝きを増しては減じ、生命をもった有機体であるかのように思われた。彼らは口々にその美しさを称え、感動を共有するのだった。そのうちに、吹いていた風がますます強くなり、それが流れの速い雲を引き連れて来て夜空を隠したので、彼らは団欒に戻った。しかし、刻一刻と激しさを増し続ける風が話を遮り、今にも炎を掻き消さんばかりにまでなったので、間もなくして彼らはお開きにすることを決めたのだった。
 長い宴が終わり、彼らの多くは覚束ない足取りで宴の行われていた広場から各々の家へと帰った。人の手や肩を借りなければ歩けない者もいたし、どうやっても深い眠りから覚めないために数名で運ばねばならない者もいた。暴風が吹き荒れる音のごうごうぼうぼうと響くなか、自宅に戻った旅人と村人たちは真っ暗な眠りへ一瞬にして落ちていくのだった。
………………
………………
…歓声が上がった。それがあまりにも大きな音だったので、旅人は目を覚ました。多数の老若男女によるものと思われるその声の続くなか、天井や地面を夥しい何かが打つ音も絶えず響いている。窓に掛かった厚手の布を上げて外を見やると、大粒の雨の降る様子が見えた。のみならず風も強かったので、雫や白く煙る細かい飛沫(しぶき)が室内にまで入ってきて、壁や床や旅人の寝巻きを濡らした。また、それと一緒に入ってきた歓声がよりはっきりと響いていた。彼は布を再度下ろして窓を塞ぎながら、
(この声は村人たちのものなんだろうか?彼らがこんなにも大きい声を出すところは聴いたことがない)
 と、思った。大人も子供も、この村の住人たちは極めて物静かなのだ。旅人は傘を探して外へ出ようと思い立った。しかし、彼が下宿させてもらっているその住まいの家族はどこにも見当たらず、傘もまた見付からなかった。それもそのはず、この村には傘という道具が存在しなかったのである。なので、彼は行李に結わえてあった笠(かさ)を被ることにした。昨夜にお別れも済ませたことだし、あまり遅い時間まで留まっていては機会を逸するだろうと思い、旅人はそのまま村を離れることを決意した。餞別にもらった干し肉や干し芋を布で包(くる)み、雨に濡れることのないよう行李の奥深くに入れ、それを背負う。彼は雨の匂いの混ざる、すっかり慣れ親しんだ家の香りを存分に吸い込んで、ついに家を出た。
 笠をばつばつぼつぼつと打つ雨の音と感触が心地良かった。村を出るため、まずは昨夜に宴を行った広場へ向かう。そのときには鳴りやんでいた例の歓声が発されていた方向もそちらだった。広場の入口が近づき、視界を白く霞ませる飛沫の向こうに村人たちの影が幽かに見えてきた。旅人が想像した、歓喜によって踊りまわる彼らの姿はそこにはなかった。老人も中年も青年も子供も丸裸で立ち尽くしており、一様に微動だにしない。村人たちは旅人が近付いて来ても全く動じなかった。彼らは全員、真っ直ぐに天を見上げていた。出来る限り大きく口を開け、雨を飲んでいるのだった。
 旅人がその様子を見ているうちに、風が少し弱まった。視界が明瞭になり、彼はその状況を了解した。村人たちは地面に根を張り、足の裏からも水分を吸収していたのである。痩せて乾ききっていた肌は張りを取り戻し、手足の指や髪の毛に生えた葉は目に見えて瑞々しさを得て、生き生きとしていた。何という生命の執念だろう!彼らの体は何世代も何十世代もこの乾燥地帯で暮らすうちに、過酷な環境に適応するよう進化を遂げたのである。
(彼らのこの姿の美しさはどうだ。見違えるほどに艶々として丸みを帯びた女たちはもちろん魅力的だし、健やかな樹を思わせる男たちの力が漲(みなぎ)る様子もすばらしい。子供たちもふっくらとして、いつもよりもさらに可愛いな。今、彼らはどんな心境なんだろう?植物が雨に恵まれたときの悦びと同じようなんだろうか。もしも植物が声を出すことができたら、さっきまでの彼らと同じようにありったけの歓声を上げるのかも知れない)
 旅人はそんなことを考えるのだった。とは言え、それを尋ねるために、年に数度しか降らない雨を堪能することを邪魔立てするには及ばなかった。雨脚はますます弱まっていたし、この分では雨が止むまで一時間もかかるまいと思われた。
(それまで待って、別れを告げるついでに訊いてみよう。やっぱり世界には想像もつかないことがまだまだたくさんある。その一つ一つを直に知り、体験することのできる旅が、おれは好きなんだ)
 雨音の小さくなった周囲には、村人たちが足の裏から水を吸い上げるどくどく、ごくごくという音がほんのかすかに、しかし力強く響いているのだった。
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by ototogengo | 2012-10-08 21:48 | はなし

『植物の蛹(さなぎ)』

Y「あれ、この雑草は一週間前に見たものとずいぶん様子が違います。先生、確かこの場所に生えていましたよね?」

先生「ええ、きみから預かっている観察ノートにもそう書いてありますよ。ほら」

Y「本当ですね。やっぱり色も形も全然違います。植え替えられた形跡はないし、生え変わったとしても成長が早すぎる」

先生「そう、そのどちらでもないでしょうね」

Y「先生はどうしてこうなったか知っていらっしゃるんですか?」

先生「ええ、分かりますよ。この草は一週間のうちに蛹になり、変態して脱皮をしたと考えられます」

Y「え、昆虫と同じようにですか?」

先生「その通りです。よく見ると、この葉は半透明だし、触ってみても…ほら、まだかなりやわらかい」

Y「あ、本当だ」

先生「この様子からすると、恐らく昨夜のうちに脱皮したんでしょう。では、Yくんは次に、この野原のなかで蛹になっている草を探して下さい」

Y「見つけたらどうすればいいですか?」

先生「私にすぐ教えて下さい。根っこごと掘り出して教室にある植木鉢に移し変え、それが脱皮する様子を観察することにしましょう」

Y「やった。それはとてもたのしみです」

先生「ええ、たのしいし実に美しいですよ。私はこれまでに百回以上その現場に立ち会いましたが、毎回初めて見たときと同じくらい感動するんです」

Y「えっ、そんなにですか?ますますわくわくしてきました」

先生「どれだけ期待をしても、きっと良い意味で裏切られますよ」

Y「ところで、蛹になった草はどんな様子をしているんですか?」

先生「大まかに分けると、葉や茎の形を残したまま乾いた皮に覆われるものと、たくさんの細い繊維で覆われた丸みを帯びて細長い繭になるものの二種類がありますね」

Y「探すのはどちらでもいいんですか?」

先生「ええ、どちらでも。Yくん、そろそろ行かないと課外活動の時間が終わってしまいますよ」

Y「はい。それではいってきます」

先生「いってらっしゃい」

S「先生」

先生「Sさん、どうしたんですか?」

S「植物の脱皮について、わたしももっと知りたいです。Yくんとの話が聴こえてきて、とても興味をひかれました」

先生「ええ、私に分かることなら何でも教えますよ。何か質問はありますか?」

S「はい。脱皮をする植物は多いんですか?」

先生「この国には五十種類ほどしか知られていません。意外に多く思われるかも知れませんが、全国には七千種類以上もの植物が確認されていますから、実のところは極めて少ないと言えるでしょうね。この野原に自生しているものとなると、せいぜい二~三種類でしょう」

S「そうなんですね。どうりでこれまで知らなかったわけです。ちなみに、彼らはどうやって蛹になるんですか?」

先生「気孔という、酸素や二酸化炭素、それに水蒸気を出し入れする小さな孔(あな)から蛹の殻をつくる液体や繭をつくる繊維を出すんです」

S「唇みたいなかたちをした、開いたり閉じたりするものですよね」

先生「ええ、そのとおりです」

S「気孔は葉にあるものだと習った覚えがあります。そうすると、蛹は葉の周りが厚く覆われているんですか?」

先生「いいえ。気孔は茎や花にもあり、果実にさえも存在するんですよ。だから、植物の蛹も昆虫のそれと同じように驚くほど均一につくられるんです」

S「へえ、命って本当に良くできているんですね」

先生「ええ、生きものが生きるための仕組みの精妙さは奇跡と呼ぶべきものでしょうね」

S「奇跡…。ところで、植物たちは脱皮の前後でどんな風に変わるんですか?」

先生「種類によっていろいろですね。赤っぽかった葉や茎の色が深緑に変わったり、鋭い刃(やいば)のようだった葉が広くて丸みのあるものに変わったり…、ああ、そういえばずっと変化に富んだものを一つ思い出しました。蛹になる前には葉がなくて一本の真っ直ぐな茎だけだった草が、それを破った後でやわらかい葉を放射状に数枚つけるんです。そして、全体が緑色をした大きな花のようになるんだから見事としか言いようがありません」

Y「先生、蛹を一つ見つけましたよ!あれ、Sさん。どうしたの?」

S「Yくんと先生の話を聞いていて興味を持ったから、詳しく教えてもらってたのよ」

先生「Yくん、こんなに短い間でよく見つけましたね。では、Sさんと私をその場所まで案内してもらえますか?」

Y「もちろんです。こっちですよ」

S「ねえ、どんなのだった?」

Y「ええと、突っ立った棍棒(こんぼう)みたいな、ふわふわした繭だったよ」

S「何それ、おもしろそうね。大きさはどのくらい?」

Y「意外に小さかったよ。高さは30cmくらいかなあ」

先生「蛹になるときはまだ子供ですからね、大抵は小さいんです。Yくんの話からすると、ハヒガンバナのようですね。ほら、Sさんにさっき話した葉が花のようになる種類ですよ」

S「彼岸花に似ているんですか?花とおっしゃるから桜か睡蓮みたいになるんじゃないかと想像していました。たった一本の茎があんなにも複雑な形をしたものになるなんてますます不思議です」

先生「精確に言うと、彼岸花はいくつかの花が集まってああいった形になるんですが、ハヒガンバナはその一つの花に似ているんですよ。もっと言うと、その一種である狐の剃刀(かみそり)という花にそっくりだと私は思っています」

Y「先生は何でも知っていらっしゃいますね!ぼくは植物が変態するなんてこれまで想像もしませんでした」

先生「いえいえ、私も未だに知らないことだらけです。この世界には同じように想像の及ばないことが、一生をかけてもとても知り尽くせないほどたくさんあるんですよ」

S「先生にそう言われると、すごく説得力があります。これからどんなものと出会えるのか、たのしみだな」

Y「Sさん、ぼくも本当にそう思うよ。先生、この世界は感動的なものですね」

先生「ええ、感動的で愛すべきものです。そして、この世界にある一つ一つの物事を丁寧に知ることはそれを愛することだと思います。そうやって愛していれば、知識は生き生きとしたものとなって私たちに根付くんです」

Y「ほら、先生、Sさん、ここですよ。ああ、何て可愛いんだろう」

S「わたしも、草がこんなにも愛おしく思えるのは今がはじめてかも知れません」

先生「可愛いですよね。その気持ちでこの繭をこれから観察していきましょう。そのうちに、そんなすばらしい気持ちがより多くのものに対して持てるようになりますよ」
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by ototogengo | 2012-09-07 12:03 | はなし

『心を割る』

「あなたの心を中心部で割り、その断面を観察してご覧なさい」

「樹のような、山脈のような、星空のような、街並みのような、靄のような、河や滝や海のような、細胞の群れのような、火や風のような模様が混在して変化していく様子が見られるはずです」

「それは感情や思考の状態、つまりあなたの心境をあらわしています。それらは渦を巻いているのか、まっすぐ流れているのか、飛沫(しぶき)が散っているのか、その動きは速いのか遅いのか。何よりもその様子が好ましいか厭(いと)わしいか、うつくしいか醜いかを、よおく観察して考え、判断することが肝要です」

「ああ、その点はどうぞご心配なく。心の眼と心の手を使ってやさしく慎重に割れば、傷が残ることは殆どありません。乱暴に割らざるをえないときもあるでしょうが、大怪我にはまずなりません。むしろ、割らないと致命的なときの方が遥かに多いんです。淀み、腐り、ごみ溜めになっていても本人が気付くことは難しいので、ずっとそのままにしておくと悪臭を放ったり、かちこちになったり、ぐずぐずに溶けたりして恐ろしい状態になります。それでも本人は当たり前のように生きていられますが、それでいて生きることがどうしようもなくつまらないんです。一方で、無理をして割ることによって多少の傷跡が残ったとしても、その後それをすばらしい心の一部として生かせるかどうかはあなた次第だと言えるでしょう」

「それでは、今ここで割ってご覧なさい。大丈夫、いつだって遅過ぎるということはないんですから」
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by ototogengo | 2012-08-29 22:39 | はなし

窓硝子の走馬灯

二年前の夏の夜半一時過ぎのことだった。そのとき、ぼくは実家の居間で本を読んでいた。四枚も横に連なった大きな窓のうちの二枚を開け放ち、網戸から入る気持ちのいい風が白いカーテンを時に大きく、時に小さく寄せては返させていた。
物語に熱中していたぼくは視界に異変を感じたので、その窓の方をふと見やった。すると、まばゆくささめく昼の陽光や深い青空、繁茂する緑や柔らかに白い雪景色、すばらしく濃厚な朱色と赤紫と紺の混じった夕焼けや窓のすぐ近くを通りすぎる黒と白のぶちの野良猫の影などが、二枚ずつが重なったその四枚の磨り硝子(ガラス)のなかに次々と、幾つかが同時に現れたり交わったりしながら、彩雲やオパールの火を思わせるうつくしい移ろいとして繰り広げられていくのだった。さらに、小さな頃の僕や弟がはいはいをしたりよちよちと歩いたりする様子、洗濯物を干す母の姿なども粗く霞むそのなかに見えたのだ。

思えば、あれは五十年以上そこに居続けた窓たちの、最期の回想だったんだろうか。あの光景を眺めた永遠のように大きくも思えた短いとき、その最中に起こった地震によって、老朽化が進んでいた硝子は鋭く澄んだ音を立て、ばらばらに崩れ落ちたのだった。他には背の高い木製の箪笥が倒れ、食器が幾つか割れたくらいで、ぼくたちの家の被害は存外小さかった。しかし、ぼくは死の間際の窓の映像を今でも鮮烈に思い出すことがある。そして、あの窓たちがどんな気持ちで生涯を過ごし、死に瀕したそのときに何を想ったのかを考えてみるのだった。
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by ototogengo | 2012-07-26 20:27 | はなし

『爪の結晶の収集家の独白』

放っておくと、結晶化する手の爪は毎度思いも寄らないすがたに、指先の延長線の斜め上方へ向かって成長する。例えば、前々回の右手人差し指の爪は小さく険しい紅く透明な山脈のように、前回の左手小指の爪は光沢の強い銀色のきっちりとした立方体の積み重なりとして、今回の左手親指の爪は夥しい水色の針でできた半球のようになった。例外なく独特でうつくしいものになるので、仕事に支障が出るほど大きくなったら、その都度根本から丁寧に剥がして保管しておくようにしている。

思えば、自分の爪の結晶の収集を始めてから早七年以上が経った。今や、そのコレクションの総数は3000に近づこうとしている。幾何学的なものや心臓形をしたもの、樹木やシダ植物にそっくりのもの、葡萄の房のような玉の重なりやきのこのようなかたちをしたもの。その姿は驚くべき多様さを備え、色もまた七色にとどまらず多種の金属色、マーブル模様や蛋白色、玉虫色を呈する幾色もの混淆(こんこう)、当たる光によって大きく変色する、あるいは燐光を放つものなど、個体ごとの特徴の豊富は想像を絶する。わたしは今日も成長過程の自分の爪のそれぞれを、また大きな棚にしまってある小さな箱詰めの結晶たちの一つ一つを飽くことなく愛でる。矯(た)めつ眇(すが)めつするのみでなく、指の腹でなぞってみたり頬にすりつけてみたりしてその触感や温度をも愉しんでいるという具合だ。わたしはこれらの小宇宙のすばらしさにただただ魅せられているというわけなのだ。これまでもずっとそうだったし、これからも変わらず、いや、ますますそうすることだろう。
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by ototogengo | 2012-07-18 19:56 | はなし

『青銅のきみへ』

十八歳まで過ごした生家の近くにある公園の一角に、四角く低い石の台に乗せられた青銅の像があった。それは生き生きとした男の子の像で、ベンチが幾つか備えつけられている広場のなか、丸く刈られたツゲの低木のそばに立っていた。十二歳までは毎日のように訪れて走り回ったり、砂や泥だらけになったりしながら近所の子供たちと遊んでいたその公園にも、少し遠くの学校へ進んだことによって全く足を運ばなくなった。
さて、そういった経緯からぼくは十年以上ぶりにその公園を訪れたのだった。理由は「よく晴れた昼間に塞いだ気持ちのままであてのない散歩をしていると、何となくそこへ行きたくなったから」としか言いようがない。中に入ると、砂場やブランコや滑り台のあたりで五歳から十歳くらいの子供たちが数人、わあわあきゃあきゃあと声を上げて遊んでいた。四方に生えた鮮やかな桃色や白色の躑躅(つつじ)の花は満開を過ぎて萎れているものが多く、一部や大部分が茶色くなっているものも決して少なくなかった。衰えや死を連想させるそれを見ると、ぼくの塞いだ気持ちはさらに鬱々となるのだった。見るべきものは他に何もないように思え、半ば諦めつつも期待していた懐かしい想いに満たされることがないどころか、その萌芽すらも感じられなかった。それにしても、陽ざしが眩しい。ソメイヨシノの樹に茂った葉の濃い緑までもがすっかり白く褪せるほどだった。ぼくは無感動で、その光景の白さのためか夢のなかにいるような心地でふらふらと歩きながら広場へ向かった。
そうして、ぼくは青銅の像と再会したのである。信じ難いことに、彼がぼくと同じくらいの背丈に成長していることは、遠目からでもはっきりと分かった。近づきながら、(そんなはずはない、あのころの彼は確かに十二歳のぼくと大差ない身長だった)と考えていたが、彼とぼくとの距離が縮まるにつれてそれが思い違いでも目の錯覚でもないことがますます明らかになるのだった。そんな最中、当時ぼくと彼がよく似ていると言われていたことを思い出した。家族も友達も、友達の親も口を揃えてそっくりだと言うのだった。やれ目鼻立ちが似ている、あら輪郭もそっくりよ、背の高さや髪型までも瓜二つ…そのように言われて、悪い気は決してしなかった。むしろ、うれしかったことを覚えている。当時の彼は満面の笑みを顔いっぱいに湛え、溌溂として今にもそれを羽ばたかせて飛び立とうとしているように両手を大きく広げながら走っている一瞬の姿のままでずっとそこにいたのだ。
そうやって思い出と現実との差異に混乱していると、ついにぼくは彼と間近で向かい合った。彼は不動の体勢をとってうつ向き気味で佇んでおり、しかもその表情が実に陰鬱だった!眉間に皺を寄せ、口を固く閉じ、心持ちこけた顔全体の筋肉が苦悶によって緊張しているのがぴりぴりと伝わってくる。ぼくは茫然として、ぼくにそっくりな彼とそのまま対峙していたが、ついに堪えきれなくなってその場を後にした。少し離れたところから子供たちがじっと、困惑したように真剣な面持ちで一部始終を眺めていた。今にも泣き出しそうな女の子もいた。彼らはぼくが立ち去るまで押し黙っていたが、公園を出てしばらくすると、彼らの元気いっぱいに遊ぶ声が再び聞こえてきたのだった。

間もなく都会での生活に戻ったぼくには、あの像がそれからどうなったのかを知るすべはなかった。しかし、あの日からぼくは確かに変わったのだった。ことさらに苦悩すること、それは自分自身を可愛がる一つの容易な方法かも知れないが、そうすることによって自分自身はもちろん、他の誰をも幸せにすることはない。ぼくは青銅の彼からそのことを学んだのだ。
今でも辛いことや苦しいことは時にあるが、それにこだわることなく健やかに暮しているつもりだ。そうするだけでも、何と気持ちよく生きていけることだろう。そうして自己にしがみ付くことなく生活をしていると、世界は発見で満ち満ちていることがよく分かる。ぼくの生きているのが辛かったり、つまらなかったりしたのは、自分の思いこんだ小さな現実と実際の世界とを混同していたせいだったんだと思う。ぼくが知っていること、一生をかけて知りうることなんてごくわずかで、それ以外の全ては未知なのだ!この奇跡ともいえる豊かな世界をそのままに見、そのままに接している限り、発見はいつまでも尽きることがないだろう。
あのとき以来、ぼくは青銅の彼をずっと想っている。彼の見えるものは限られているし、接することのできるものはさらに少ない。しかし、その狭さや少なさのなかにはどれだけ多くのものが含まれているだろう!あの四角い台の上から見えるものは、特別なところが何もない小さな公園のさらに小さな一角だ。しかし、観察しながら接することをやめなければ季節ごとに、天候ごとに、朝や昼や夜ごとに、いや瞬間ごとにさえ発見のないときはないだろう。世界は絶えず移ろっており、全く同じ瞬間は一つもない。だから、ああやって一か所にしかいられないからこそできる発見だって多くあるに違いない。繰り返しになるが、何かを分かりきったつもりになり、憂鬱に囚われて無気力にさえならなければ、その一つ一つを知るよろこびを持ち続けることができるのだ。
彼との再会を果たしてから、ちょうど三年のときが経った。ぼくはあの日、公園の躑躅やソメイヨシノにしか目を向けなかった。だけど、今ではもっと多くのものに目を向けられるようになっている。今日、もしもぼくがあの公園に行ったなら、地面を見下ろすと純白の三枚の花びらが三角形に近いかたちを成すトキワツユクサが見え、縦に筋のはしった五枚の花弁を縁が逸れるほどにしっかり開いたムラサキカタバミが見え、さらにはハゼラン、キキョウソウの花、その他にも名前を知らない様々な草花が見られるに違いない。蝶がそれらの蜜を吸いに来ており、その葉や茎を蟻やアブラムシが歩き、さらにそのアブラムシを食べるために天道虫がやって来る様子が見られるかも知れない。空に目を向け、その色や雲の姿や動きを観察することも、子供たちの声や虫や鳥の声に耳を傾けることも、植物たちや土の香りを体いっぱいに吸い込むこともできる。そして何よりも、あのときとはまるで違うやわらかな表情をした彼と笑って対面できるような気がする。ぼくが彼のおかげで変われたように、ぼくの大きな変化が彼を変えているように思われて仕方がないのだ。
この夏に、ぼくはあのとき以来の帰郷の予定を立てている。青銅のきみ、ぼくはきみと会えることをたのしみにしているよ。
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by ototogengo | 2012-07-10 22:44 | はなし

『服のなかの小鳥たち』

翼を広げて飛びまわる数十羽の小鳥が模様になっている袖なしのワンピースが彼女の大のお気に入りだった。
彼女は本格的に寒くなる前の着おさめにと、仲秋のある日にそれを身に纏って外へ出た。街なかを歩いていると、ワンピースが内側からの風に吹かれるようにして突然はためいた。同時に模様の鳥たちが南方へ向かって一斉に飛び出し、その空に浮かぶ影はどんどん小さくなってやがて見えなくなった。彼女は「あっ」と言ったきり、呆然としてその様子を見送るしかなかった。
帰宅した彼女は空っぽになった、かすかに緑みを帯びたその水色のワンピースを寂しい気持ちでハンガーに掛け、衣装箪笥へ大切に仕舞ったが、暗く狭い場所で退屈したり寒さに震えたりすることなく冬を越えられるであろう小鳥たちを想うと、胸のあたりがぼおやりと温かくなるのだった。

翌年の五月の晴れた日のことだった。彼女は空っぽになったそのワンピースを何となく取り出し、それを着て外へ出た。みずみずしい新緑の繁る公園のなかを歩いていると、遠くの空で光るたくさんの点だったものがぐんぐん近づいてきて鳥の姿になり、彼女の頭上で急降下して服のなかへ入っていった。その布は数秒間ばたばたゆらゆらしてから静かになった。小鳥たちの帰郷だった。
ほんの少し大きくなったようにも思える、服のなかで羽を広げて飛びまわる小鳥たちは、今年も秋までそこで過ごすんだろう。彼女はやさしく微笑んで彼らのその様子を眺めているのだった。
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by ototogengo | 2012-07-08 22:49 | はなし

『四兄弟のメジロたち』

メジロはまるまるとした、スズメほどの小さな体をした鳥で、淡い苔色の体毛に覆われていて目の周りが白く縁取られている。
さて、同じ体色をして、目の周りだけ色が異なる突然変異種たちがいた。毎日のように表情や行動を観察したところ、その四羽はそれぞれに性格が異なるようだった。しかし、彼らはとても仲のいい四兄弟だったのだ。
そこが粉雪のように白い、落ち着いていてはっきりと話す長男がメジロ。彼岸花のように紅い、物静かで声の低い二男がメアカ。墨のように黒い、四六時中はしゃいでおどけている三男がメグロ。ラピスラズリのように青い、おどおどしていて声の小さい末弟がメアオ。
彼らは今日もちゅちゅちゅんぴっぴょ、ちちちょんぴっぴと、白い花が満開になった小さな樹の枝の上で横一列に並んでお喋りしているのだった。いつもたのしそうに話しているが、わたしはメジロ語を知らないので、その内容がどんなものなのかは分からないのだった。
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by ototogengo | 2012-06-29 13:08 | はなし

『石鹸の花』

真新しい、少し光沢のある白く丸っこい石鹸を、底へ沈まないように塩水をほぼいっぱいに張った陶製の鉢のなかで浮かべる。晴れのときは一日に二度、朝と夕方に石鹸の上から塩水をかける。それを欠かさずに行って二ヶ月もすると、大きな蓮そっくりの花が咲く。ふっくらとした花弁には細かい間隔ごとの条線が見られ、眩しいほどに白い花びらは先の方だけがうっすらと桃色に色づいている。空気に触れる面積が増したためか、それは元の状態よりもさらに広く、さらに豊かに香るように思われる。また、水をあげた後、いくつかの水滴が花の表面に玉をなしてくっつき、そのなかで陽光がきらきらと戯れている様子も、花自体の見事さと相まっていくら眺めても飽き足らないほどうつくしい。
石鹸の花は短命で、わずか6日しかもたない。しかし、実際の蓮の花は4日で散るというのだから、それでもまだ長いといえるだろう。5日目から花びらが一枚、一枚と水面に散りはじめ、6日目の夕方にはほぼ完全な球形をした小さな石鹸の芯だけが残される。そして、未だに瑞々しく見える白い花びらの数片がその周辺に浮かんでいるというわけだ。その経過もまた趣深くて実にいい。
そのあとは花期を終えた石鹸の芯と花びらを全て集め、もう一度元の丸っこい姿に作り直す。そうして、再び花が咲くときをたのしみに、真新しいとしか思えないように復元したその石鹸を一から育てはじめるのだ。
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by ototogengo | 2012-06-20 22:41 | はなし

『ふしぎな夜を越えて』

ただしは長そでと半ズボンの学生服を着て、つば付きで上面がマフィンのようにふくふくとふくらんだ学生帽をかぶって夜道を歩いていた。家はまだ遠い。ふっくらとした畦道に四角く区切られて連なる田んぼは奥の方が黒ぐろとして闇にしずみ、近くでは張られた水の仄かな光沢がゆれ、苗がまばらに植えられていくつかずつの葉がそっと、あるいはすわっと開いている。水面に映るその影のやわらかさ、うつくしさ。ただしは夜のいささか湿った透明さに包まれたその風景のなかで、とことこ進むのだった。淡い淡い白や黄や赤や青の星たちで静かににぎわう夜空の広がり。下方に、その藍色とくっきり分かれた山の連なりがごつごつとした、しかし丸みをおびて真っ黒い姿で静かにある。時々、ごおっと音を立てて風や車が通り過ぎていく。車の場合は辺りが明るくなり、それが最高に達すると、すぐさま暗くなって遠ざかっていくのだ。すると、闇は光が通る前よりもその暗さを増したように思われる。
それからしばらくすると、いつまでも家へ辿り着けないんじゃないかと不安になってきて、ただしは闇に追い立てられるように歩を速めた。じわじわとした怖さがどこまでも大きくなり、初めは靄に似て薄かったそれがやがて濃くなり、心と体に重くのしかかる。いつもの通学路なのに、まるで異次元に迷い込んだようだった。そこら中の暗がりに異形のものたちがうようよしているように思われる。彼らはうつろな眼と冷たい体をしており、アメーバのように伸縮しながら合体したり分かれたりして、宙を浮かんだり脚を生やして疾走したりもできる。時々大きな口を開け、声なき叫びを上げる。そのときの無限のかなしさをたたえた、怨念に満ち満ちた表情にただしの身の毛がよだった。彼らは何をそんなに呪っているんだろう。
ただしはついに駆け出した。車の恐いほどに白い明かりが、走る彼の姿と長い影を闇にくっきりと映し出し、像を残す。彼は異形のものの一人が右肩に手をおき、他のものたちが蠢きながら彼を取り囲んでいるように感じていた。背筋が粟立ち、ぼくはどうなってしまうんだろうという疑問が頭をよぎると、彼は泣きたくなった。死や消滅が彼を待っており、それをいたむ家族の悲しむ姿が脳裏をじわじわと埋めつくしていく…その想像がどうしても本当になるように思われることが、彼には耐え難かった。その想念から逃れるため、ただしは全力で駆けた、駆けた、駆けた。
四方からの目映い照明に照らされた不気味な無人のグラウンドの横を通り過ぎ、シャッターの降りた商店や民家がまばらに建ち並ぶ大通りに出る。その道を沿って走り続け、寂寞とした、コンクリートで塗り固められた広い敷地とたくさんの倉庫を持つ工場を過ぎた。グラウンドの中心にぽつんといてこちらを凝視しながら歪めた笑いをひきつらせているものに、工場や商店の陰から次々と這い出してきてはぞくぞくと迫ってくるもの…異形のものたちはそこら中にいた。その道程でただしは何人かの人を追い越し、同じくらいの人とすれ違った。スーツ姿の会社員、二人連れの若い女性、犬を連れて散歩している老年に近い男性もいた。しかし、ただしには彼らもまた異形のものが化けた姿なのかも知れないと思われて仕方がなかった。街灯や車の明かりが露わにするその顔を見ないようにしてうつむきながら、ただしははあはあと息を弾ませながら駆けた、駆けた、駆けた。
たっぷり十五分ほども走ったただしが道を左に曲がると、そこには彼の住む団地があった。黄みや赤みや白みを帯びた、家々の明かりが窓からもれている。家族の話し声や犬の鳴き声が聴こえてくる。野菜や肉や魚を焼くにおい、おみそ汁やシチューのいい香りが漂ってくる。ようやく、ただしは深く安堵して歩いていた。息はまだまだ荒く、心臓がどくどくと打っていた。
自分の町への愛おしさが抑えきれずに胸から全身へ、全身から外界へと溢れていた。どこまでも膨らむよろこびと、どこか切ない懐かしさがあった。彼の顔はほほえみで輝いていたが、同時にその目には涙が浮かんでいた。
家がどんどん近付いてくる。ただしにとって、たった一つだけのわが家が。彼は早くお母さんや兄のこうじ、妹のかなに会いたかった。お父さんはまだ仕事から帰ってきていないだろう。そして、温かくて美味しいごはんをみんなで食べるのだ。ふと、彼は家の近くの広い空き地の前を通るところで違和感を覚えた。暗闇でいっぱいになっているはずのそこから、ちらちらする光を感じたのだった。
ただしが左へ向き直ると、そこには風に合わせて舞い散る火花に似た光の大群があった。緑を基調にして黄色や水色に移ろいながら昇り、降り、時に渦巻きながら、それは満開になった花々が散開するように豊潤な流れを成していた。光の出どころはすぐに知れた。4~5メートルほどもあるきのこが20も30も、全体が少し歪(いびつ)な輪をなすようにして立ち並び、その傘の裏側が少し沈んだ黄緑色の蛍光を強く放っていたのだ。そこにある襞にそって、それは直線に近い曲線の放射を成して輝いていた。ただしは早く家に帰りたいという切望も、家の近くの空き地にいるという実感もなくし、光の源へ引き寄せられてふらふらと歩いていった。風が繁茂した草花を波うたせ、さあさあざわざわいう音の重なりをそこいら中に放っていた。
ただしの瑞々しい黒髪の艶も、彼の大きな丸い黒目も、ふっくらとした白っぽい頬も、移ろう光の色に染まっていた。寄せては返す風の時々でざあざあと、ぱちぱちと、ふわふわと、流れて走って漂う夥しい光の粒たちは踊っているようで、笑っているようで、うたっているようでとても愛らしく、うつくしく思われた。ただしは彼らと一緒になってその祝祭を、何もかもを忘れてよろこんでいた。笑顔をうかべながら、感嘆の声をあげながら、ぐるぐると見まわしながら。彼は時々両腕を拡げて手の平を空に向け、それらの輝く胞子の群れをうっとりと感じるのだった。
まるで銀河が瞬きながら流れるように、さらに数を増して輝く光は風に命を吹き込まれて舞い続けた。その宴は時間を静止に近いほどに拡げ、同時にその密度をどこまでも濃縮させるのだった。全ての瞬間が結晶化して、ただしの心身を満たしていた。いや、自分自身としての器が溢れかえり、もはやただしはその景色と同化していた。やがて彼はそれすらも超えて途方もなく上昇して広がりながら、しかも生まれてからこれまでで最も鮮やかに『ここにいる』という確信を覚えているのだった。
きのこの散らす胞子は徐々に少なくなった。今や、それは水辺を飛びはじめたばかりの蛍たちの発する、宙を泳ぐ光のように疎らで、輝きもまた仄かだった。そこでただしは反対側へ向き直り、おだやかでやさしい心持ちで空き地を後にした。すっかり弱くなった夜風は肌寒くなり、彼の全身を撫でて過ぎるのだった。夜の町の灯りに照らされるなかで余韻にひたされて歩いていると、彼はもう家の前に立っているのだった。
ただしは呼び鈴を鳴らした。ぱたぱたという足音がして扉が開かれると、そこにはお母さんが立っていた。
「ただし、遅かったじゃない!心配したのよ」
熱をおびて彼女が言った。
「お母さん、ごめんなさい」
ただしはその愛情に満ちた叱責と、彼女がすぐ傍にいることを感じて幸せだった。涙がこみ上げてきたが、表情はほほえんでいた。
「こんな時間まで何をしてたの?まあ、服をそんなにも汚して。しょうがない子ね」
と、言いながらお母さんは胞子が白くこびりついている彼の髪や服をやさしくはたくのだった。
「ごめんなさい、ぼく、さっきまでおかしなことがあったの」
「ほら、まずは着替えなさいね。お腹も空いてるでしょう。ごはんを食べながら話しましょうね」
「うん。ありがとうお母さん」
「ほらほら、もう怒ってないから泣かないの」
彼女は手の甲でただしの目元をなでて涙をぬぐうのだった。そこで、兄のこうじと妹のかなが玄関まで駆けて来た。
「ただし、遅いよー」
「おそいー」
母の背中から顔を出しながら、笑顔の二人は口々に言うのだった。ただしはとてもうれしかった。

温かいご飯のある食卓で、ただしは向かいに座っている母に空き地での出来事を話した。
「かさみたいなあたまをした、こんなにこんなに大きいでんしんばしらみたいなものが、わになって立ってたの」
「たくさんのほしみたいな光がさくらの花みたいにふってきたよ」
「そのなかでこうやって立っていると、すごくいいきもちがしたの」
「いっしょに空をとんで、おどってるみたいだったの」
彼は身振り手振りを交えて、しきりに白いご飯や豚のしょうが焼きや刻みキャベツをぱくついて、おみそ汁をすすったり麦茶を飲んだりしながら話し続けた。
「うんうん、それから?」
「それはどんなものだったの?」
お母さんは相槌をうったり質問をしたりしながら身を入れて聞いていた。顔をただしの方に近付け、彼女は濁りのない体温をおびた眼差しをまっすぐに向けていた。彼女は話が終わると、
「ただし、良かったわねえ。また見かけることがあったら、すぐにお母さんを呼んでね」
と言った。
「え、どうして?」
「お母さんもただしと一緒にそれを見たいのよ」
子供っぽく笑いながら彼女は答えるのだった。
「そのときは、こうじとかなも一緒にね。あ、もしかして、そのきのこってヒトヨダケなんじゃないかしら。ちょっと待ってね」
彼女は自分の部屋からそそくさと図鑑を持ってくる。
「ほら、それってこんなのじゃなかった?」
「ううん、ちがうよ。もっと丸っこかったもん」
「えー。じゃあ、順番にページをめくっていくからどんなのだったか教えてよ」
「ふふ、いいよ」
「これは?」
「ちがう。もっとかさのところがほそながかったかなあ」
「じゃあ、これ」
「あ、ちょっと近いかも。でも、色がもうちょっと白かったよ」
「ふーん。じゃあ、これは?」
………

ただしは次の夜も、その次の夜もあの空き地へ行ってみた。しかし、あのきのこたちは跡形なく消え去っていた。それからも、彼は夏の盛りが来るまでほとんど毎晩通ったが、あの光景に遭遇することは一度もなかった。彼の学生服や学生帽に付いた胞子もきれいに洗い流され、それらは元の黒さを取り戻していた。しかし、それでもただしは清々しい気持ちだった。この世界には想像もつかない不思議があり、またそれに出会うことができると確信していたからだ。

今日、彼はたくさんの田んぼが広がるところまで出かけて、おたまじゃくしたちを観察する予定だった。数日前から足が生えてきたものが目に見えて増えており、その変化をおもしろく眺めていたのだ。そこまでは川沿いの道を選んで行き、途中で自転車を止め、めだかの群れが泳いでいないかも見てみるつもりだ。
「おかあさん、いってきまあす」
「はあい、いってらっしゃあい」
ただしは大きな麦わら帽をかぶって外に出ると、肌を焼く強い日差しとむわっとする熱風のなかを、車庫の陰に置いている自転車へ向かって駆けていくのだった。
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by ototogengo | 2012-05-16 21:41 | はなし