中島弘貴
by ototogengo
中島弘貴
多様なものごとと関わりながら世界を広げて深める。文筆、音楽、絵、写真をやります。

2011年に解散したバンド“立体”では、うたとギターを担当。空島出版主宰。


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カテゴリ:空島出版( 35 )

「海の上の森」

空が晴れ、海が凪いでいるときにだけ出現する森がある。それが現れるのは、見わたす限りの一帯に陸地がなく、水深が200m以上ある海の上に限られている。加えて、これは容易に首肯されるだろうが、その場所の海水が清らかである必要もある。

風がおさまってからしばらくすると、微かな揺らぎしかない静かな海面に、たくさんの小さな芽が生える。淡い青や緑を帯びた、透きとおった水でできた芽だ。それらが開くと、幹が伸びて枝葉が広がり、みるみると太く大きな樹に育っていく。
半時間ほど経って樹高が5mを超える頃から、同様の水の体を持つ森の住民たちが姿を現す。例えば、獣や鳥や虫といった動物たちがいる。彼らはせせらぐような、あるいは滴って弾けるような澄んだ音を立てながら駆け、跳ね、飛び、歌う。さらに例えを挙げると、苔や羊歯(しだ)や草花やきのこといった植物や菌類たちもいる。それらの放つ花粉や胞子は霧となって森全体を間欠的に覆い尽くし、海の上の森の神秘性を高める。そのような住民たちが、海の上の森の豊かな生態系をつくりあげるのだ。
加えて、そこにおいては光の変化が実にすばらしい。最高で50m近くにも達する、透明な樹々を通過して差し込む陽光は、光の網や縞、光の夥しい泡や幾層にもなったヴェールなどが精妙に組み合わさった模様を生み出す。そのようなやさしい光で満ち満ちた空間のなかにいると、やがて抗うことの敵わぬ眠気に襲われる。そうして、安らかで甘やかな眠りを経て夕刻に目を覚ますと、光の色と模様が移ろっていく様子がまざまざと感じられ、暫し呆然となる。夕焼けの鮮やかな日などは、あまりの美しさに涙が零れるほどだ。
しかし、そんな海の上の森で命を落とす者、行方知れずになる者は多い。この森は往々にして短命で、とても脆い。一度(ひとたび)強い風が吹けば、樹々は急激に崩れ落ち、辺りのものに降りかかるどころか、強大な波を引き起こして広大な一帯を呑み込む。そのような最中(さなか)にいれば、命はまず助からない。また、すぐに風が吹かなくとも、森の奥に迷い込んだら最期、やがて来る森の崩壊とともに訪れる自身の死は避けられない。そんな危険があるにもかかわらず、海の上の森は古来、探検家や海洋学者たちを引きつけてやまない。現代においても、その犠牲になる死者と行方不明者は年間1500名を下回ることがない。

海の上の森の発生条件は初めに記したとおりだが、飽くまでもそれらは目安に過ぎない。条件が揃っても出現しないことは度々だし、森の現れる海域もまちまちである。恐らく、他にも多数の条件を満たす必要があるのだろう。それらの全てが詳(つまび)らかになっていない現在、海の上の森と遭遇できる確率は少ない。発見できたところで、そこへ行き着くまでに消滅してしまうことも多く、森のなかで幸せな体験を得られるのは奇跡だと言っても過言ではない。私は、そのような機会に恵まれたとしても、森のなかへ入るべきだとは思わない。一方で、それを避けるべきだとも思わない。海の上の森のなかでは人生が変わる体験を必ず得られるということ、そして、そこを目指すならば人生をふいにする覚悟を持たねばならないこと、私にはその二点が言えるのみである。
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by ototogengo | 2013-03-21 19:38 | 空島出版 | Comments(0)

「蝸牛(かたつむり)の潮」

みなさんは鳴門の渦潮をご存知だろうか。それは潮汐によって一日に二度生まれる速い潮流が海峡両岸近くにある穏やかな流れを引き込むことによって起こる現象で、徳島県鳴門市と兵庫県南あわじ市の間にある鳴門海峡で見られる。渦潮は大きなものになると直径20mにも及ぶという。小学校低学年の頃に旅行か何かをした際にそれを見た覚えがあるが、幼い時分だったので記憶に残っていることがほとんどないのが残念だ。
さて、鳴門海峡の激しい潮の流れは世界三大潮流の一つに数えられているが、その他の一つである北アメリカ西岸とバンクーバー島東岸との間にあるカナダのセイモア海峡においても渦潮は発生する。それはSnail’s Current、つまり『蝸牛(かたつむり)の潮』と呼ばれるが、鳴門海峡のものと異なり、波が縦向き、つまり海面に対して垂直方向に渦を巻く。鳴門の渦潮と同じく速さの異なる主流と副流とが関係して生まれる現象だが、大きく抉れた海岸線の地形や水深の高低差、海底の火山活動などの要因によって主流が副流とぶつかると同時にその下へ勢い良く潜り込み、それを受けて海面から立ち上がって離れた海水が宙に大きな輪を描くのだ。それは最大で直径10mにもなるが、季節や天候や時間帯によって刻々と変わる潮の流れに応じて海面に対して殆ど完全に垂直になるものもあれば斜めになるもの、ごく小さなものや輪に成りきらないものもあり、時にはその名の通りの蝸牛を思わせる渦が百も二百もほぼ同時に発生するという奇観を生み出すのである。
1818年に英国のジョージ・ロス船長が北西圏航路を開拓するために行った航海に同行した絵師が描いたとされる、蝸牛の潮を描いた水彩画を銅版におこしたものが現在も大英博物館に残されているが、それは数ある同時代の驚異に富む奇景画のなかでも白眉の、息を呑む迫力を備えている。羊雲がぽつぽつと見える他は深い青に澄みわたった太陽の輝く空と鬱蒼とした緑に覆われた山脈を背景にして前面いっぱいに蝸牛の潮が百近く散在しており、陽の光を浴びながら迸(ほとばし)る飛沫やのたくる流れや波、そして見事に輪や渦を描く蝸牛の潮が精緻かつ臨場感に溢れる激しさをもって描き出されている。真に迫るどころか、真を超えたようにさえ感じられる一枚なのだ。
ところで、私はその絵を知って以来憧れていた蝸牛の潮を実体験するために、四年前の初秋にセイモア海峡を訪れたことがある。思ったように時間が取れなかったため、そこで過ごせる時間は半日にも満たなかったが、天候は生憎の雨だった。しかも、フェリーに乗り込んだ時には小降りだったのに、運航しているうちにひどい嵐になった。多分に迫(せ)り出した起伏の豊かな分厚い雲に覆われて狭くなったように感じられる空の下で、横殴りの雨を伴う暴風と荒れ狂う波が大きな音を響かせて船体を揺さぶっていた。雨と海水の混然一体となった一面の灰がかった白い飛沫は嵐の勢力の強弱に応じ、呼吸をするように濃くなったり薄くなったりした。そして、それが薄くなったときにだけ蝸牛の潮が見えたのである。至近距離で潮が弧を描いて大きな輪となり、崩れていく様子がはっきりと見えたし、遠方のそれらは雨と飛沫に霞みながらも墨色をした雲のなかで白く、丸く浮かび上がって見えた。転覆さえも危ぶまれる船の窓から見えたものは重々しくも早く流動する雲、飛沫の一粒一粒やその塊、混沌とした海面、そして次々と生まれては崩れる一面の蝸牛の潮の数々だった。幾度となく訪れた雷光の閃く一瞬が、私の眼と脳裏にそれらの全てを焼き付けた。だからだろうか、私は今でもその光景を鮮明に思い出すことができる。そして、今まさに嵐の只中でそれを体験しているように思われるのだ。湧きあがる恐怖と驚異がいや増す、踊るように溢れかえる歓喜と共に。

(空島出版『水のはなし』より抜粋)
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by ototogengo | 2012-06-04 19:49 | 空島出版 | Comments(0)

「センコウハナビゴケ」

半日陰地の樹の根元や岩上にマット状の群落をつくるタマゴケ科の一種。線香花火の先端の火だまりのような、明るい橙色~赤色の真ん丸い蒴(※)を黄ばんだ薄い茶色の柄のてっぺんにつける。雨の降る日に雫が当たると、それらの一本一本をふるふると揺らしながら、火花を散らせるように金色の胞子をぱちぱちと空中に放つ。その様子もまた線香花火にそっくりだ。本州から九州にかけて見られるが、関西以西に多い。国外では中国、台湾、東南アジアに分布している。

※胞子を容れるところ

(空島出版編纂『図鑑』より抜粋)
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by ototogengo | 2011-12-18 16:48 | 空島出版 | Comments(0)

「昼焼けについて」

雲一つない澄みわたった快晴はごく稀に昼焼けという現象を起こす。
朝から徐々に白くなり続けていた太陽の周囲の空が正午前後に最も、真っ白といえるほど白くなる。それはくたくたとすっかり煮つめられたような白で、そのなかに青、緑、黄、赤、紫、そしてその間のあらゆる微妙な色をも含むどこまでも淡く細かな色の粒子がさわさわと充溢し、息づいているのだ。

そのとき、太陽から同心円状に離れるに伴って空の色はなめらかに深く濃くなっている。水平線や地平線近くの空は時に水色、時に青、時に緑青で、はっとするほど鮮やかでありながら透みきって見えるので、体から抜け出した形のない自分がそこまで真っ直ぐに跳んでいって引き寄せられ、溶けこんでいくのだ。

昼焼けにはまだまだ多くの魅力がある。空と山や海や町との境はくっきりとして見事だし、凪いだ、もしくは荒れた水や窓の面(おもて)に映しだされるその色にもまたうっとりさせられる。
何よりも惚れ惚れするのは、そのうつくしい太陽と空が凝縮された雫や水たまりを見ることだ。昼焼けの多くは極めて寒い冬の日、とりわけ空気に不純物の少ない雨の上がった日に見られるので、朝露や蒸発しきらない雨の雫、それに水たまりがそこかしこに見られることがよくある。
草や苔の一面に繁った平原や河原には星のようにおびただしく輝く雫たちが、少し起伏のある土の広がった空き地や干上がりかけた池にはうねうねと、ぽこぽこと点在する水たまりの群れが見渡せてすばらしい。
しかし、昼焼けの日においてはベランダの物干しざおから垂れさがる二、三の雨の名残りや、工事現場にある不格好な水たまり、道端の雑草を彩るささやかな水滴たち…身近にあるそれらを見るだけで、いや、むしろそれらに限りないうつくしさを発見して思わずため息を漏らす瞬間こそが最も幸福に思われるのだ。

(空島出版『気象のはなし』より抜粋)
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by ototogengo | 2011-12-13 11:17 | 空島出版 | Comments(0)

「雲の星」

地球から420光年離れたソラクス銀河に属する「雲の星」と呼ばれる惑星は、‏公転周期である六年間に一度、まだ名前を付けられていない恒星に最も接近する数ヵ月間だけ虹色になる。その星をすっかり覆う決して厚くはないガス体が地球における彩雲そっくりの姿を呈して色と形を変えつつその周囲を巡る様子は、うつくしいと言う他ない。2001年にダッカート宇宙望遠鏡が虹色に色づいた雲の星の姿を捉え、その現象が発見された。

(空島出版編纂『図鑑』より抜粋)
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by ototogengo | 2011-08-30 09:17 | 空島出版 | Comments(0)

「ケイランガイ」

その貝の一種は鳥の卵そっくりの殻を背中に乗っけて水底(みなぞこ)を這う。鳥の卵よりもっと固く、もっと光沢の強い殻だ。白、茶、桃、黄、緑、黒のうち一色のみを呈することが多いが、大理石模様をしているものや雪花が咲いているものなど、洒落た姿をした個体も稀に見られる。
彼らは主に珊瑚礁を住みかにしているので、それらの殻が珊瑚の隙間やその近くの砂地から覗いている所を発見することがあるが、それを見ると実に不思議な気持ちになる。殻に良い具合のひびが入っている個体も少なからず見られるので、今にも水中を飛ぶ鳥の雛がそこから姿を現すんじゃないかという想像にかられるのだ。

(空島出版編纂『図鑑』より抜粋)
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by ototogengo | 2011-06-25 01:59 | 空島出版 | Comments(0)

「空気を噛むことについて」

標高2000mを超えるアンデスのある地域では、褐色の肌をした老人が草を食むリャマと同じように口をもぐもぐさせている様子を頻繁に見かける。彼らは食べ物を口に含んでいるわけではなく、深呼吸で吸い込んだ空気を噛んでいるのだという。何でも、噛むごとに仄かな甘みが加わるのだそうだ。また、空気や風の味は季節や天候、時間帯によって顕著に変化するのだという。話をしてくれたある男性によると、この地域には珍しい大雨が降った翌朝の、そよ風を含んだ空気がまろやかで清清しく、深みがあって最も美味いのだそうだ。しかも、季節が春なら尚すばらしいという。

私も彼らを真似、その地で何度も空気を噛んで味わってみた。初めはその時々で違いがあるのか理解し難かったが、徐々に違いを解するようになった。乾燥した真夏の昼間の煙たい苦み。晩秋の深夜の透きとおった、どこか色気のある味。冬の夕暮れ時の爽やかな悲哀の漂う味。そして、春の大雨が降った翌朝の馥郁(ふくいく)たる甘み。

あの地を離れてから七年が経った。今でも、ここ東京で空気を噛んでみることがある。この場所で空気は味わえないな、と心のなかで苦笑することもあるが、深夜や早朝、長雨の晴れ間などに食べると、思いがけず空気が美味しいことも多々ある。場所は緑の比較的多い公園や寺社の境内、住宅街の路地などを選ぶといい。それに、空気の美味さは天気や時刻のみならず、心の状態とも大いに関係しているらしい。心身の穏やかさを深めたいとき、もしくはそれを取り戻したいときは、深呼吸をしてゆっくり空気を味わうことをお薦めする。

(空島出版『文明のはなし』より抜粋)
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by ototogengo | 2011-06-18 00:41 | 空島出版 | Comments(0)

「ジギタイト」

通称“大地の心臓”と呼ばれる鉱石ジギタイトは多くが紅色か桃色を示し(稀に黄色のものもある)、半透明で五角十二面体を形作る。そのように呼ばれる所以は、暗所で内部からの緩やかな点灯が見られ、常時人肌に近い熱を帯びていることにある。両手で包み込むと温かく、やわらかい光が洩れて非常に心が落ち着く。

(空島出版編纂『図鑑』より抜粋)
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by ototogengo | 2011-03-03 22:46 | 空島出版 | Comments(0)

「パイナップルのはなし」

今となっては知らぬ者がないといっても過言ではないパイナップルと呼ばれる果物だが、日本に伝来した当初、その形と味が人々に驚愕をもって迎えられたであろうことは想像に難くない。改めて考えると、珍奇な形にそぐわない美味を備えた果実の最高峰だと認めざるを得ないのではなかろうか。マンゴスチン、ドラゴンフルーツ、ドリアン…、それらのどれにもパイナップルほど衝撃的な外見と味覚との落差は感じられない。

パイナップルの日本への伝来は比較的遅く、江戸時代後期の弘化二年(西暦1845年)、オランダの船によって初めて日本へ持ち込まれたという。では、パイナップルについて初めて記された学術書はどんなものだったのだろうか。

『本草述説』は弘化三年(1846年)、水戸藩に仕えた本草学者佐藤小稜によって記された植物事典だが、そこに「食用松カサ」なる項目があり、それをパイナップルと考えるのが妥当なので、パイナップルについて記載のある日本最初の学術書とされている。ちなみに松かさとは、俗に言う松ぼっくりのことである。
「食用松カサ」の項目にはわずかに四つの文しか割かれておらず、まずは「此黄色ノ実ハ南国ニ産ス」の一文で始まる。続いて、「其形松カサニ甚ダ似テ鱗ガアリ湿潤ノ程ニヨリテ開閉スモノナリ 但シ大サハ一尺ニ及ブ」と、二、三文目でその形と大きさが示される。ここで二文目の後半にご注目頂きたい。湿潤ノ程ニヨリテ開閉…、なんと、松ぼっくりと同じように、空気が乾燥しているときには表面を覆う鱗片一枚一枚の間隔が開いて隙間ができ、湿っているときには閉じて隙間がなくなることを示しているのだ。恐らく、佐藤小稜自身はパイナップルの実物を目の当たりにしたことがなく、伝聞や憶測によって記したのだろう。当時の一流の学者にとっても、パイナップルがいかに縁遠いものであったのかが窺い知れる。それにしても、実際にそんな習性をもつパイナップルがあれば、是非お目にかかりたいものだ。その変化の様子を観察するために自宅で育ててみたい、とさえ思う。
ともあれ、小稜の文は「其味 甘キ梨二似テ美味至極ナリ」で結ばれる。よくよく調べてみると、この書には他の果実の記載もあり、“美味”の表現が幾らか見られるが、“美味至極”と記されたものはパイナップルのみなのだ。それを以て当時の世におけるパイナップルに関する風評が熱烈であったと判断するのは早計に過ぎるだろうか。いや、ここで例を挙げるのは割愛するが、他の多くの文献を見ても、確かにそんな様子が窺われるのだ。冒頭において記した私の想像はやはり正しかったのである。

さて、この項は箸休めならぬ頭休めといった目的で差し挟んでみた。見知らぬ植物の記述が続いて疲れた皆さんの頭に、よく見知った植物の知られざる話が快く感じられたなら、私の目論見も達せられたというものだろう。

(空島出版『植物のはなし』より抜粋)
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by ototogengo | 2010-05-24 14:28 | 空島出版 | Comments(0)

「セッカイゼミのはなし」

中東はユーフラテス川の上流一帯にセッカイゼミという、体長6~8センチと比較的大型の蝉が生息している。
セッカイとは石灰、すなわち彼らの体が鍾乳石のような黄を帯びた淡い乳色の突起に覆われているために付けられた名前である。その胴体と、ほのかに赤みを帯びた目と、透明な翅(はね)。その姿もうつくしく特徴的であるが、もう一つの大きな特徴は彼らの生態にある。それは彼らが幼虫から成虫になる際に見られる、体の下半分を土に埋めたままで脱皮を行うことなのだ。つまり、六本の脚で体をしっかりと支え、胸から上を地面に乗り出すような恰好のまま背中が割れて、成虫が抜け出す。そのように特異な脱皮の体勢をとるのは、彼らの天敵であるモリネコがその地域の樹上を中心に活動しており、その襲撃を避けるためだといわれている。

さて、そんな彼らの殻は脱皮の際に体が傾かないよう安定させるためか、かなり固くて厚みがある。その脱け殻は一風変わった彫像のように、ちょっとやそっとの風雨にも負けず、しっかりと立っている。その立ち姿だけでも十分に面白いというのに、この地域には鋭い顎を使って脱け殻の背中にある割れ目を大きく広げ、それを巣穴に改造するハンミョウの一種が生息しており、そのハンミョウが脱け殻の底でじっとしていたり、そこを出入りしたりする様子、他にも雨の次の日に虫たちや小動物たちが顔や舌を突っ込んで、脱け殻の中に溜まった雨水を飲んでいる様子などは、それに輪をかけて奇妙である。
蝉の脱け殻を見つけて集めることが人間の子供たちを大いに喜ばせるように、セッカイゼミの脱け殻は他の生き物たちにも恩恵を与えるのだ。今年も夏になると、木々の根の周辺に屹立する不思議な、小さな彫像たちがぽこぽこと現れるのだろう。

(空島出版『虫のはなし』より抜粋)
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by ototogengo | 2010-05-11 16:21 | 空島出版 | Comments(0)