中島弘貴
by ototogengo
中島弘貴
多様なものごとと関わりながら世界を広げて深める。文筆、音楽、絵、写真をやります。

2011年に解散したバンド“立体”では、うたとギターを担当。空島出版主宰。


【SNS】

twitter

facebook

mixi


【音源試聴】
soundcloud

my space


お仕事のご依頼、メッセージ等はこちらまで ↓
man_polyhedron@hotmail.co.jp
カテゴリ
全体
はなし
空島出版
出演、出展
言葉
言語
日記

写真

手紙
共作
本や音楽などの紹介
気休め
音楽集団“立体”
歌詞
未分類
その他のジャンル
記事ランキング
画像一覧


<   2012年 06月 ( 5 )   > この月の画像一覧

『四兄弟のメジロたち』

メジロはまるまるとした、スズメほどの小さな体をした鳥で、淡い苔色の体毛に覆われていて目の周りが白く縁取られている。
さて、同じ体色をして、目の周りだけ色が異なる突然変異種たちがいた。毎日のように表情や行動を観察したところ、その四羽はそれぞれに性格が異なるようだった。しかし、彼らはとても仲のいい四兄弟だったのだ。
そこが粉雪のように白い、落ち着いていてはっきりと話す長男がメジロ。彼岸花のように紅い、物静かで声の低い二男がメアカ。墨のように黒い、四六時中はしゃいでおどけている三男がメグロ。ラピスラズリのように青い、おどおどしていて声の小さい末弟がメアオ。
彼らは今日もちゅちゅちゅんぴっぴょ、ちちちょんぴっぴと、白い花が満開になった小さな樹の枝の上で横一列に並んでお喋りしているのだった。いつもたのしそうに話しているが、わたしはメジロ語を知らないので、その内容がどんなものなのかは分からないのだった。
[PR]
by ototogengo | 2012-06-29 13:08 | はなし

『スイスの絵本画家 クライドルフの世界』展

c0129064_12321161.jpg

昨日、渋谷のBunkamuraミュージアムで行われている『スイスの絵本画家 クライドルフの世界』展を観てきました。まずは、日本では決して有名とは言えない彼の人物紹介をします。

エルンスト・クライドルフは1863年、スイスのベルンに生まれた絵本作家です。裕福な家庭の生まれでなかった彼は、学費をかせぎながらドイツのミュンヘンで美術学校に通って絵を学びましたが、次々と亡くなった家族に対する悲しみや過労のために体をこわしてしまいます。そこで、1889年から1895年まで療養のためにアルプスのふもとパルテンキルヘンに移り住みます。その場所で花や虫などの小さな生き物を含む大自然と接しながら発想を得た絵や詩を元に、彼はその後の生涯にわたって絵本作りを続けました。

さて、彼の絵本の原画やスケッチ、風景画が約220点も集められた展示は本当にすばらしいものでした。
以前から彼の絵本の存在は知っており、手に取って眺めたこともありましたが、発刊が古いものだったせいか印刷が決して良くはなく、彼の絵の魅力を大きくは感じられませんでした。それでも、その源泉となる想像力、仕事の丁寧さには眼を見張るものがあったので今回の展示に行ってみたんですが、実物は段違いでした。
特に驚かされたのはその色です。花や葉、虫や太陽や月、空や雪などが実に細やかかつ豊かに彩られており、それに魅了されました。そして、花や虫を擬人化する想像力と創造力の結びつきにも感嘆しました。彼らの一人一人が大きな愛情をもって描かれていることが、その生き生きとした表情や仕草、彼らの纏った可愛らしくも美しい衣装などからまざまざと伝わってくるのです。
また、スケッチや風景画からも彼の観察眼と筆力の確かさ、技術の引き出しの多さが窺い知れ、それが絵本というかたちに結実されたことに感動を覚えました。
そんな彼の魔法のような絵は観る度に発見があるので、その大きな会場を二順して堪能しました。そして、それはとても幸せなひとときでした。

展覧会はBunkamuraでは7/29まで開催、それから全国を巡回する予定とのことです。興味をもたれた方は是非足を運んでみて下さい。

展覧会の詳細はこちら(リンクの先に、当展示に関するすてきな動画もあります)
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/12_kreidolf.html
[PR]
by ototogengo | 2012-06-28 12:37 | 本や音楽などの紹介

フランツ・カフカ『審判』

フランツ・カフカ『審判』を約十年ぶりに再読した。

覚えのない罪のために逮捕された男が正体の分からない訴訟に巻き込まれる。裁判所の下位の役人たちと接することはできるが、組織の上位の姿や仕組みは全貌どころかほとんど明らかにされない。訴訟の進行もまた不可解なことだらけで、例えば主人公のヨーゼフ・Kが頼んだ弁護士は半年を費やしても始めの願書すら完成させることがない。

この作品が未だに大きな説得力を持っていることは脅威であり、また残念なことでもある。それは訳も分からずこんがらがった社会に翻弄され、殺されていく人間の姿をまざまざと突きつける。カフカは観察した現在の対象を、その生々しさを損なうことなく超時代的な物語に昇華することのできた優れた作家だ。

『変身』や『審判』、『城』といった彼の代表作が強い共感を呼ばなくなるとき、社会はより良くなったと言えるかも知れない。それらの陰鬱とも言える作品群が評価されなくなったとしても、カフカには豊かな想像力と鋭いユーモアに裏打ちされた愉しい短篇も多くある。だから、そんなときが訪れるとしても彼の文学のすばらしさは損なわれないだろう。
[PR]
by ototogengo | 2012-06-27 01:37 | 本や音楽などの紹介

『石鹸の花』

真新しい、少し光沢のある白く丸っこい石鹸を、底へ沈まないように塩水をほぼいっぱいに張った陶製の鉢のなかで浮かべる。晴れのときは一日に二度、朝と夕方に石鹸の上から塩水をかける。それを欠かさずに行って二ヶ月もすると、大きな蓮そっくりの花が咲く。ふっくらとした花弁には細かい間隔ごとの条線が見られ、眩しいほどに白い花びらは先の方だけがうっすらと桃色に色づいている。空気に触れる面積が増したためか、それは元の状態よりもさらに広く、さらに豊かに香るように思われる。また、水をあげた後、いくつかの水滴が花の表面に玉をなしてくっつき、そのなかで陽光がきらきらと戯れている様子も、花自体の見事さと相まっていくら眺めても飽き足らないほどうつくしい。
石鹸の花は短命で、わずか6日しかもたない。しかし、実際の蓮の花は4日で散るというのだから、それでもまだ長いといえるだろう。5日目から花びらが一枚、一枚と水面に散りはじめ、6日目の夕方にはほぼ完全な球形をした小さな石鹸の芯だけが残される。そして、未だに瑞々しく見える白い花びらの数片がその周辺に浮かんでいるというわけだ。その経過もまた趣深くて実にいい。
そのあとは花期を終えた石鹸の芯と花びらを全て集め、もう一度元の丸っこい姿に作り直す。そうして、再び花が咲くときをたのしみに、真新しいとしか思えないように復元したその石鹸を一から育てはじめるのだ。
[PR]
by ototogengo | 2012-06-20 22:41 | はなし

「蝸牛(かたつむり)の潮」

みなさんは鳴門の渦潮をご存知だろうか。それは潮汐によって一日に二度生まれる速い潮流が海峡両岸近くにある穏やかな流れを引き込むことによって起こる現象で、徳島県鳴門市と兵庫県南あわじ市の間にある鳴門海峡で見られる。渦潮は大きなものになると直径20mにも及ぶという。小学校低学年の頃に旅行か何かをした際にそれを見た覚えがあるが、幼い時分だったので記憶に残っていることがほとんどないのが残念だ。
さて、鳴門海峡の激しい潮の流れは世界三大潮流の一つに数えられているが、その他の一つである北アメリカ西岸とバンクーバー島東岸との間にあるカナダのセイモア海峡においても渦潮は発生する。それはSnail’s Current、つまり『蝸牛(かたつむり)の潮』と呼ばれるが、鳴門海峡のものと異なり、波が縦向き、つまり海面に対して垂直方向に渦を巻く。鳴門の渦潮と同じく速さの異なる主流と副流とが関係して生まれる現象だが、大きく抉れた海岸線の地形や水深の高低差、海底の火山活動などの要因によって主流が副流とぶつかると同時にその下へ勢い良く潜り込み、それを受けて海面から立ち上がって離れた海水が宙に大きな輪を描くのだ。それは最大で直径10mにもなるが、季節や天候や時間帯によって刻々と変わる潮の流れに応じて海面に対して殆ど完全に垂直になるものもあれば斜めになるもの、ごく小さなものや輪に成りきらないものもあり、時にはその名の通りの蝸牛を思わせる渦が百も二百もほぼ同時に発生するという奇観を生み出すのである。
1818年に英国のジョージ・ロス船長が北西圏航路を開拓するために行った航海に同行した絵師が描いたとされる、蝸牛の潮を描いた水彩画を銅版におこしたものが現在も大英博物館に残されているが、それは数ある同時代の驚異に富む奇景画のなかでも白眉の、息を呑む迫力を備えている。羊雲がぽつぽつと見える他は深い青に澄みわたった太陽の輝く空と鬱蒼とした緑に覆われた山脈を背景にして前面いっぱいに蝸牛の潮が百近く散在しており、陽の光を浴びながら迸(ほとばし)る飛沫やのたくる流れや波、そして見事に輪や渦を描く蝸牛の潮が精緻かつ臨場感に溢れる激しさをもって描き出されている。真に迫るどころか、真を超えたようにさえ感じられる一枚なのだ。
ところで、私はその絵を知って以来憧れていた蝸牛の潮を実体験するために、四年前の初秋にセイモア海峡を訪れたことがある。思ったように時間が取れなかったため、そこで過ごせる時間は半日にも満たなかったが、天候は生憎の雨だった。しかも、フェリーに乗り込んだ時には小降りだったのに、運航しているうちにひどい嵐になった。多分に迫(せ)り出した起伏の豊かな分厚い雲に覆われて狭くなったように感じられる空の下で、横殴りの雨を伴う暴風と荒れ狂う波が大きな音を響かせて船体を揺さぶっていた。雨と海水の混然一体となった一面の灰がかった白い飛沫は嵐の勢力の強弱に応じ、呼吸をするように濃くなったり薄くなったりした。そして、それが薄くなったときにだけ蝸牛の潮が見えたのである。至近距離で潮が弧を描いて大きな輪となり、崩れていく様子がはっきりと見えたし、遠方のそれらは雨と飛沫に霞みながらも墨色をした雲のなかで白く、丸く浮かび上がって見えた。転覆さえも危ぶまれる船の窓から見えたものは重々しくも早く流動する雲、飛沫の一粒一粒やその塊、混沌とした海面、そして次々と生まれては崩れる一面の蝸牛の潮の数々だった。幾度となく訪れた雷光の閃く一瞬が、私の眼と脳裏にそれらの全てを焼き付けた。だからだろうか、私は今でもその光景を鮮明に思い出すことができる。そして、今まさに嵐の只中でそれを体験しているように思われるのだ。湧きあがる恐怖と驚異がいや増す、踊るように溢れかえる歓喜と共に。

(空島出版『水のはなし』より抜粋)
[PR]
by ototogengo | 2012-06-04 19:49 | 空島出版