中島弘貴
by ototogengo


「本当は」 作詞・作曲/中島弘貴(作詞協力/星山可織)

言葉ではない波紋が伝わって
動物や植物と意思を通わせる

本当はあるんだ 顕れより密に
知っていることは世界のほんの一部

宇宙は宇宙を数知れず孕んで
一つ一つの活動にたゆたう

布団のなかで体温が後をひく
瞼の裏で星たちが瞬く
暗黒がふくむ何千の色を視る
現実の奥に隠れたものを読む

うたわれないうたがあちこちで響いている
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# by ototogengo | 2013-12-17 21:35 | 歌詞 | Comments(0)

日影丈吉『暗黒回帰』序文

幼い頃、枕に小さな頭をのせて眠りに入る前に、色とりどりのビーズ玉を撒きちらした夜空が、きまって見えた。私はまだ眠っていないはずだった。が、完全に目がさめていたか確信はない。瞼の裏が無限大の闇をうけ容れ、そこに広がる粟粒大の光は、万華鏡式に収縮拡散する光の残像ではなくて、無数の天体のように固定していた。その発光ビーズ玉は銀河ほど遠くにあるらしい。それを見るのが楽しく、しばらく見ているうち眠ってしまう。そのうち、その賑やかな色の点点の集団のむこうに、まだ底知れぬ遠くまで続いているらしい闇が、すこしこわくなり、いつも変わらぬビーズ玉宇宙まで、光度の落ちた古電球のように、すこし淋しく、同時に退屈に思えて来た。それまでに何ヵ月が何年が経過したか記憶にない。あるいはもっと短い期間だったかも知れない。だが、そこに退屈を感じだすと、それは二度と見られなくなった。
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# by ototogengo | 2013-12-15 00:54 | 本や音楽などの紹介 | Comments(0)

『彼の草の毛』

髪の毛、髭、眉毛、その他もろもろ…彼の体に生えるありとあらゆる毛は、注意を払わなければ、他の人のものと大して変わらないように見える。しかし、それらの実体は細長く尖った単子葉類の草なのだ。例えば、身だしなみのために髭や眉毛を引っこ抜くと、根っこがするすると出てくる。あるいは、途中でぷつんと切れる。 彼はそのように抜いた毛や自ずと抜け落ちた毛を親指と人差し指の間に挟みながら転がし、もてあそぶのが好きだと言う。
陽の明るい日、彼はよくご機嫌になる。張りのある毛が光を受けて美しく輝くし、柔らかな影を落とすから。風の吹く日、彼はよくご機嫌になる。髪の毛が揺れてこすれ合い、草原のようにさやさや、しゃらしゃらと鳴るから。その音といい、繊細かつ力強い形といい、瑞々しい緑色といい、彼は自分の毛を自慢に思っている。
ただし、おいしい葉に誘われて、鼻のなかや耳のなか、わきの下などに小さな虫が度々入って来ることには困惑している。いつまでもそのくすぐったさに慣れないし、何とか取り出そうとしてその虫を殺してしまうこともあるから。また、初夏から秋にかけて、彼が自然の多いところにいると、虫たちは草の毛を目指し、大群隊を成してやって来る。それは深刻な悩みの種だった。虫たちは彼の毛をむしゃむしゃ、しゃくしゃくとむさぼり食い、取り分け毛の密集する髪や眉を不格好にしてしまう。だから、そんなとき、彼は帽子を深くかぶって予防せねばならない。冬になれば帽子なしで済むかと言えば、そんなことはない。むしろ、自宅以外のどこにいても帽子をかぶらねばならなくなるのだ。なぜなら、その季節、彼の毛は茶色く枯れ、縮れたり折れたりした後で抜け落ちてしまうから。

彼は「自分の毛のすばらしさを多くの人に見てもらいたいのに、それを示す機会が少なすぎる」とよく嘆く。そんなとき、「どの季節の、どんな状態のあなたの毛にもそれぞれの良さがある」と言って慰めるのだが、決して納得しない。あげくの果てに、「君はぼくとは違うから、君には絶対に分からないよ」と彼は吐き捨てるように言う。草の毛を持つ当人にしか計りがたいことがあるのは確かだろうが、草の毛を持たない人の意見に少しは耳を傾けてもいいのではないか、と思う。「そうじゃないと、立場の違う人同士は永久に分かり合えないよ。それほどさみしく、つまらないことはないじゃない」…つい最近、同じ話題が出たとき、力を込め、声を震わせて私がそのように説くと、彼は神妙な面持ちで聴いていた。こうまで人と人とは分かり合えないのか、どうしてこんなことでいがみ合わねばならないのか、とやり切れなくなり、私は泣きそうになったが、何とかこらえた。すると、「うん、すごくさみしいね。そうだよ、いつまでもこんなことじゃだめだ」と彼は応え、その眼から大きな涙が一粒、二粒とこぼれ落ちた。そのとき、彼の緑色の上睫毛にくっついた小さな真ん丸い涙の雫が震えていて、それが妙に美しかった。
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# by ototogengo | 2013-09-22 22:50 | はなし | Comments(0)

フランツ・カフカ『城』

フランツ・カフカによる未完の長篇小説『城』を再読。

城にもその下にある村にも属せないどころか、当地に家庭もなく本来の仕事もさせてもらえない異邦人である主人公K。彼は城へ近づこう、あるいは自己以外の所属を得ようとして、村の様々な場所で奮闘を重ねる。しかし、それは決して叶わない。
登場人物のほとんどが城や村、加えてそれぞれに属する人々に対して自らの見解と主張を持つが、それらが一致することはほとんどない。元々、城の規律はそれを半ば強制的に一致させようとしたものでもあると考えられるのに、皮肉にもその不一致をより大きな、より入り組んだものにしている。
Kが多くの人と一対一で交わす長過ぎる会話が執拗に繰り返され、不透明でこんがらがった城の規律と役割、それに準じざるを得ない人々の姿が浮き彫りにされる。決して読みやすくはないが、現代社会とも通じるその迷宮のような実態をまざまざと突きつけられる、一読の価値のある作品。

それにしても、真実を突きつめよう、登場人物たちの主張を詳細に書き切ろうとする姿勢が強く伝わってくる文章だ。その主張が的を射ているかどうかはともかく、ここまで合理的に考えようとする人々が多くいる世界は実在しないので、作者自身の投影か幻想が現れているとするべきだろう。そして、そんな驚くべき書き方の生真面目さは、カフカの生き方にも共通していたのではないかと思われる。彼のそのようなところを尊敬している。
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# by ototogengo | 2013-05-28 19:26 | 本や音楽などの紹介 | Comments(0)

『影の食事』

「人の影は、食べ物の影を食べて生きています」

「人は基本的に、明るいところで食事をします。あまりにも暗いところにいると食べ辛いし、美味しさも損なわれるように感じられますからね。だから、基本的には人が食べ物を口にすると同時に、人の影が食べ物を口にしている様子も見える。それこそが、影が食事をとる姿だというわけです」

「しかし、暗闇のなかで長くいると、人の影というやつは盗み食いをすることがあります。この林檎は、本体は手付かずなのに影の上部が欠けています。ほら、こうやって光を当てると、歯形のついている様子までもがはっきりと分かるでしょう?」

「これは、私の影が齧った跡なんです。私の影は盗み食いをするのが癖になっていましてね…。私が暗い場所にいるときや寝ている間はもちろん、明るい場所にいるときでも、どうにかして食べようとしやがるんです。この間も本を読んでいたら、私の影が篭(かご)に入った苺の影に手を伸ばしているところを見つけたので、その手をひねりあげてやりました。ははは、まったく…油断も隙もない、食い意地の張ったやつだと思いませんか」
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# by ototogengo | 2013-04-15 17:47 | はなし | Comments(0)

『缶詰』

ずっと昔から仕事場の倉庫の隅に放置している、保存食の入った箱のことをふと思い出した。それはあの大震災の直後、有事の際の備えとして用意したものだった。

次に仕事場へ出向いたとき、わたしは倉庫に入った。埃の積もった箱を取り出してそれを払い、意を決して20年以上ぶりに開ける。すると、中から微かな水音がちゃぷちゃぷと聞こえてくるではないか。音の源は、とうに賞味期限の切れた鰯の缶詰だった。恐る恐る缶を開けると、生き返った二匹の鰯が窮屈そうに入っており、油で濁った液体の中で体をひらひらさせて泳ぎたがっている。
続いて、他の缶も開けてみる。乾パンは意外にも異状がなかったが、桃の缶詰は外観からして変わっていた。内部から缶を突き破ってか弱い枝が伸びており、半ば萎れた葉がついていたのである。太陽光の決して届かない箱のなかにずっと置かれていたので、元気がないのは当然だ。
それから、わたしは枝と密接した缶を苦心の末に切り外し、根っこにへばりついていた、乾いてしわくちゃになった果肉を丁寧に取り除いた。ちなみに、その弱弱しい桃の樹は果肉の水分とそれを浸していたシロップを養分にして育ったらしく、缶の中に水分はほとんど残っていなかった。

わたしはその小さな樹を自宅へ持ち帰り、庭の一角にある、日当たりのいい場所に植え直した。一週間、二週間と経つうちに桃の樹は元気になり、枝も葉もすくすくと伸び始めた。どのくらい先になるかは分からないが、花や実をつけるのがたのしみである。
ところで、その桃の樹のすぐそばに小さな池がある。実は、そこにあの生き返った二匹の鰯を住まわせていたのだ。缶のなかで暮らすうちに環境への高い適応力を身に付けた彼らは、その淡水のなかでも難なく暮らしていた。しかし、いつの間にかそのうちの一匹の姿が見えなくなった。大方、池の周囲に時々やって来る白鷺(しらさぎ)にでも食べられてしまったのだろう。もう一匹は仲間がいなくなって寂しがる様子もなく、これまで通りに泳ぎ回っている。
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# by ototogengo | 2013-04-06 21:37 | はなし | Comments(0)

『越境をする』

その人は越境をする。例えば、壁や絨毯やカーテンや布団カバーなどに何らかの模様が描かれていれば、そのなかへ入って人間の姿に象(かたど)られた模様の一部に変身する。その模様に実のなった植物があしらわれていれば、それらの果実の一つを取ってこちらへ戻って来ると実物になり、代わりに模様のなかのそれが消えている…といった具合に、あちらのものをこちらに持ち出し、こちらのものをあちらへ持っていくこともできる。
その人は越境をするので、本のなかへ入ることもできる。それが小説であれば新たな登場人物の一人となるし、画集であればその画風どおりの姿に変わって絵のなかに現れる。辞書ならその人の名前の一項目が加わるし、学術書や図鑑など、本文に出番がないものならページの端やカバーの裏などに、名前の文字や小さなシルエットへと姿を変えてこっそり介入する。

その人はそんな越境を実にたのしく続けてきた。
そうするうちに自分と他のものとの区別がつかなくなるかと思いきや、自分自身を遥かによく知るようになった。さまざまに異なる物事のなかへ身を投じることで、自他の差異をより多面的、かつより深刻に実感できる。だから、その経験を積めば積むほど、そういった差異をなくすように自身の存在を変える、より巧みな越境が可能となる。その人はその人自身に他ならず、それでいて如何なる対象にも馴染めるというわけなのだ。
偏見をもたず、ごく丁寧に対象を見極め、自分をそれに出来るだけ合わせて共存していく。そのように、多くの越境を体験するなかで共通して顕われる自分の傾向が、性質が、その人をその人たらしめている。個とは、固定されたものに限らず、運動や成長を含む総体なのだ。そのような個は信じ難いほどたくさんの面を備えており、異なる状況と出会うごとにその一面、もしくは数面に光が当たって反射が生まれ、それが反対に世界の一部を照らし出す。
だから、その人は自分らしいだとか自分らしくないだとかに煩わされることなく、種々雑多な越境を続けていく。その行き先はハンカチに刺繍された数種類の小鳥たちによる規則的なパターンのなかであったり、自然の作用によって一枚岩の表面に現れた海岸にも似た風景のなかであったり、天使と空と草花の描かれたステンドグラスのなかであったり、いろいろな星たちの瞬いて煌めく夜空のなかであったりする。そのような越境の経験によって、自分自身と世界とが運動や成長、連環をする様が実感され、その双方の実体がより明らかになるのだ。

(さあ、今日はどこへ行こうか)
その人はそう思いながら、これからどんな発見に出会えるのかと、とてもわくわくしている。その人は決して飽きることがない。自分自身も世界も、尽きることのない豊かさに満ちている、もしくは満たすことができると知っているからだ。その人は、知れば知るほど知らないことが多くなるとますます強く理解してきたし、これからも理解していくだろう。
そうして、知ったかぶりや決めつけによる境界を決して作らず、他の誰かがそのような虚偽によって築いた境界にも決して囚われることのないその人は、越境をして未知と出会い続ける。地続きとなったこちらとあちらとを限りなく自然に、呼吸をするようにして行き来しながら。
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# by ototogengo | 2013-03-31 18:11 | はなし | Comments(0)

『受粉者の独白』

花粉を浴び過ぎたせいか、五日ほど前から皮膚の一部が粟立ち始めた。何てことはないだろうと放置していると、その小さな一粒一粒が徐々に膨らんで果実になった。観察すると、主におでこの髪がかからない部分、頬と顎、首の周囲、手の甲のあたりに結実している。要するに、外出時に肌が露出していたところに集中して実っているらしい。受粉したということだろうか。

おかげで、私はさまざまな場面で随分と苦労している。職場では、長らく関係を結んできた得意先と交渉する任を解かれ、ひたすら事務に当たらされている。家庭では、感染を恐れる妻と子供から隔離されて過ごしているから、食事の時も就寝時も孤独だ。風呂場では湯船に浸かることが許されずにいるし、洗濯物は他の家族のものと決して一緒にしてはならず、自分で洗って干さねばならないという始末。街中に出ると、好奇や嫌悪の眼差しでじろじろと見られるし、人混みにおいても電車内においても私の周りには誰一人として近寄らない。
自分自身としても気味が悪いので、何度も果実を引っ張って取ろうとしたが、予想以上にしっかりとくっ付いている。さらに力を入れると強烈な痛みが走るので、無理をして引きちぎるなんてとてもできない。 どうやら、皮膚と一体になっているらしい。

仕方がないので、熟してからもいでみようと思う。流石に、その頃になれば簡単に取れるだろう。いや、取れて欲しい。
…それにしても、そうして収穫した実は果たして美味しいんだろうか。仮に美味しかったとしても、自分の体から成った実を食べると考えれば、複雑な心境にならざるを得ない。それは1クッションを置いた、ゆるやかなカニバリズムということになるんじゃないか。その果汁は血のように紅いか、膿のような白か黄色をしている…そんな想像をすると、ますます気持ちが悪くなった。
もしかすると、私が収穫する前に鳥たちがついばみにやって来るかもしれないし、虫たちが群がるかも知れない。そのときは、どのように対処すればいいんだろう。彼らの食事の邪魔はしたくないが、あまりにも痛かったりくすぐったかったりすると大変だ。可愛い小鳥や穏やかな蝶や甲虫ばかりではなく、凶暴なやつや生理的に受けつけないやつも来るだろうし。

ちなみに、私は重度の花粉症である。目の痒みや鼻詰まり、くしゃみといった基本的な症状はもちろん、体のだるさや発熱にも毎年悩まされている。その上、こんな面倒な事態になるなんて、花粉とはとことん相性が悪いらしい。しかし、不満を言っても仕様がない。だって、花粉の散布は植物の営みの大切な一環に違いないんだから。要するに、どうにか折り合いをつけてやっていくしかないんだろう。

…いや、待てよ。その実がどんなものになるかはともかくとしても、その種がどのように育つのかが気になる。草になるんだろうか、それとも樹になるんだろうか。どんな葉っぱや花を付けて、どのくらいの大きさまで育つんだろう。せっかくだから、愛らしい草か立派な樹にでも育って欲しいものだ。
そうやって考えるうちに、それが植物と私との合いの子に当たるのではないかという推測に辿り着く。うーん、ますます複雑な心境になってきた。とすれば、やがて生まれるのは植物と人間の合わさった生命体になる可能性が高いと考えられる。果たして、それはどんな(以下、略)
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# by ototogengo | 2013-03-30 21:42 | はなし | Comments(0)

「海の上の森」

空が晴れ、海が凪いでいるときにだけ出現する森がある。それが現れるのは、見わたす限りの一帯に陸地がなく、水深が200m以上ある海の上に限られている。加えて、これは容易に首肯されるだろうが、その場所の海水が清らかである必要もある。

風がおさまってからしばらくすると、微かな揺らぎしかない静かな海面に、たくさんの小さな芽が生える。淡い青や緑を帯びた、透きとおった水でできた芽だ。それらが開くと、幹が伸びて枝葉が広がり、みるみると太く大きな樹に育っていく。
半時間ほど経って樹高が5mを超える頃から、同様の水の体を持つ森の住民たちが姿を現す。例えば、獣や鳥や虫といった動物たちがいる。彼らはせせらぐような、あるいは滴って弾けるような澄んだ音を立てながら駆け、跳ね、飛び、歌う。さらに例えを挙げると、苔や羊歯(しだ)や草花やきのこといった植物や菌類たちもいる。それらの放つ花粉や胞子は霧となって森全体を間欠的に覆い尽くし、海の上の森の神秘性を高める。そのような住民たちが、海の上の森の豊かな生態系をつくりあげるのだ。
加えて、そこにおいては光の変化が実にすばらしい。最高で50m近くにも達する、透明な樹々を通過して差し込む陽光は、光の網や縞、光の夥しい泡や幾層にもなったヴェールなどが精妙に組み合わさった模様を生み出す。そのようなやさしい光で満ち満ちた空間のなかにいると、やがて抗うことの敵わぬ眠気に襲われる。そうして、安らかで甘やかな眠りを経て夕刻に目を覚ますと、光の色と模様が移ろっていく様子がまざまざと感じられ、暫し呆然となる。夕焼けの鮮やかな日などは、あまりの美しさに涙が零れるほどだ。
しかし、そんな海の上の森で命を落とす者、行方知れずになる者は多い。この森は往々にして短命で、とても脆い。一度(ひとたび)強い風が吹けば、樹々は急激に崩れ落ち、辺りのものに降りかかるどころか、強大な波を引き起こして広大な一帯を呑み込む。そのような最中(さなか)にいれば、命はまず助からない。また、すぐに風が吹かなくとも、森の奥に迷い込んだら最期、やがて来る森の崩壊とともに訪れる自身の死は避けられない。そんな危険があるにもかかわらず、海の上の森は古来、探検家や海洋学者たちを引きつけてやまない。現代においても、その犠牲になる死者と行方不明者は年間1500名を下回ることがない。

海の上の森の発生条件は初めに記したとおりだが、飽くまでもそれらは目安に過ぎない。条件が揃っても出現しないことは度々だし、森の現れる海域もまちまちである。恐らく、他にも多数の条件を満たす必要があるのだろう。それらの全てが詳(つまび)らかになっていない現在、海の上の森と遭遇できる確率は少ない。発見できたところで、そこへ行き着くまでに消滅してしまうことも多く、森のなかで幸せな体験を得られるのは奇跡だと言っても過言ではない。私は、そのような機会に恵まれたとしても、森のなかへ入るべきだとは思わない。一方で、それを避けるべきだとも思わない。海の上の森のなかでは人生が変わる体験を必ず得られるということ、そして、そこを目指すならば人生をふいにする覚悟を持たねばならないこと、私にはその二点が言えるのみである。
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# by ototogengo | 2013-03-21 19:38 | 空島出版 | Comments(0)